日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2022年3月13日 説教:森田恭一郎牧師

「あなたは誰か?  私こそ神の御子、救い主」

レビ 二四・一五
マルコ一四・五三~六五

ユダの国の大祭司、聖書のことをよく知っている人です。この大祭司がイエス様に尋ねました。「お前は誰か?」。自分で問いかけながら、続けて自分で答えるようにして尋ねました。「お前は ほむべき方(=神様)の子、メシア(=キリスト、救い主)なのか」(マルコ一四・六一)。

答えとしては大正解です(拍手―)。その通りだったのでイエス様も「そうです」、「私は、神の御子、救い主である」と答えました。そして更に念を押すようにして聖書の言葉を引用しながら付け加えて答えました。「あなたたちは、人の子(=イエス様)が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」。神様の右に座り、天の雲に囲まれて来るなんて、神の御子、救い主にしか出来ないことです。素晴らしい!(拍手―)。そして信仰を告白するというのは、この大正解をそのままに「そうですよね、イエス様は神様です。私の救い主です」と応えられることです。ただ知識としてではない。心から拍手出来ることです。

 

ところが、大正解、聖書の通りだったので、大祭司は今度はみんなに問いかけました。祭司長、長老、律法学者たちのみんなです。よく聖書を知っている人たちです。「諸君は冒瀆の言葉を聴いた。どう考えるか」と。大正解だったから、「そうですよね」、「良かったね、お目出とう」とはならずに「神様を冒瀆している」ということになってしまいました。イエス様はただの人間なのに自分のことを「神の御子=神様だ」などと言うのは、真の神を差し置いて自分を神とする、それは冒瀆だ! 冒瀆、国語辞典を見ると、神聖なもの、清らかなものを汚すこと、と書いてあります。大祭司たちからすれば、イエス様は神聖な神様を汚している。神を冒瀆する者は誰でも、その罪を負う(レビ記二四・一五)べきだ、それでイエス様を「死刑にすべきだ」とみんなで決めたのでした。

でも私たちの信仰からすれば、これは逆におかしい。イエス様こそ、神の御子、救い主です。この神様を大祭司たちこそが汚している、冒瀆しているのは明らかです。

 

聖書をよく知っている大祭司、祭司長や長老、律法学者たちが、なぜ、イエス様を「そうですよね。神の御子でいらっしゃいますよね」と告白出来ずに神を冒瀆してしまったのか。

それは、イエス様のお姿が、この人たち自分が思い描く神様のお姿、救い主のお姿に全く合わなかったからです。この人たちの思い描く神様、救い主のお姿は、神様を信じない異教徒をやっつけてくれる、裁いてくれる神様。あの頃は、神様を信じない代表格として、ローマの国があった。そのローマの国をやっつけて滅ぼしてユダの国を救ってくれるのが、この人たちが願い期待した神様、救い主のお姿でした。人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来る、というのも正に、ローマをやっつけに来てくれる救い主のお姿でした。なのに、イエス様が自分がそれである、などと荒唐無稽な出来もしないことをヌケヌケと言う。それは冒瀆だ、となった。もう一度言いますが、自分の思い描く神様というのがあり、その姿にイエス様は全然当てはまらないから、お前のような奴は罪を負って死んでしまえ、ということになった。

 

今日「カナンの風No18」をお配りいたしました。いつも素晴らしい文章が載っています。今回は辻野和子さんがお書き下さいました。この中で辻野さんがこう語っています。「理想のクリスチャン像を思い浮かべ、自分は天国に行けないとか、ふさわしい人間を目指すのは無理かも、と小学生の時から思い続けていました。中高でも聖書を毎週読み続けましたが、やはりクリスチャンになるには自分の不甲斐なさを感じるばかりでした」。ここに、自分の思い描く「理想のクリスチャン像」というのがあり、それに比べて現実の自分は「不甲斐なさを感じるばかりでした」。自分の思い描く理想像があって判断する、これではだめだと裁いてしまう。これは、自分に対してだけではなく、実はイエス様に対しても同じです。

信仰を告白し洗礼を受けようと願いつつも踏み出せずに迷うのは、ほとんどの場合、自分の思い描く理想像に縛られて、神様に対しては期待外れ、自分に対しては不甲斐なさを感じるからです。そうである限り、信仰を告白するのも洗礼を受けるのも出来ないと思います。

辻野さんがこれを乗り越えることが出来たのは「信仰は自分の気持ちだけではない、もっと広いものだと教えて戴いた」からです。

 

私たちが信仰の告白へ導かれるとはどういうことか。自分が立派になれるか、その自分の気持などよりも、もっともっと広い神様に視野を広げ、その広さに委ね、包まれ、イエス様は神の御子であると信じますと告白することです。

神様であられるイエス様が、人間の罪を贖うために、罪は犯されなかったが、全ての点で人間と同じになって下さった(ヘブライ二・一七、四・一五参照)。イエス様は、私たち人間が神様を小さくし神を冒瀆してしまうこの罪を贖うために十字架におつきになりました。私たちの罪を贖うために人となられた神さま、このお姿は実は、私たち人間の思い描く神様のお姿を越えて、はるかにダイナミックで捉えきれない程に広い、大きい、高い、深い。そして私たちの姿も、自分が思い描く不甲斐なさや小ささよりも、もっと広いご計画を神様がお心に留めておられる。

また、洗礼を受けて信仰者になったら周りの人たちは何と思うだろう、と思ったりもします。そのように思わせる日本社会の現実もあるかもしれません。でもそこで、どこに視野を広げるのか。もっともっと広い神様に視野を広げ、この広さに委ね、包まれることを神様は望んでおられます。

辻野さん、最後にこう語ってくださいました。「迷っている方がいたら、ぜひ教会に来て一緒に気持ちを共有してくださいね」。教会は神様のお気持ち、そして教会の信仰を共有する広い所です。