創世記 三・七~九
ガラテヤ三・二六~二九
先週、洗礼式を執り行うことが出来ました。本当に幸いなことです。そこで起こった出来事は何であるのか、今日のガラテヤ書が語っています。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ている(ガラテヤ三・二七)。洗礼を授けられて信仰者となった人の姿がキリストを着ている姿です。今日はこの幸いを心に留めたい。
服を脱いだら裸の姿になります。人間は裸で生まれてきます。創世記の物語では、アダムとエバも当初裸でした。彼らが神さまから禁止されていたのに善悪の知識の木からその実を採って食べてしまいました。すると二人の目は開け、自分たちの裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした(創世記三・七)。してはいけないことをしてしまった罪の姿に気づき、それをいちじくの葉でいわば服を作って、腰を覆ったのでした。その後、神さまが園の中を歩く音が聞こえてくると彼らがしたことは、アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れるということでした。すると主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか」。神様から隠れることは出来ません。あなたはどこにいるのかと問われてアダムは「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。私は裸ですから」。彼らはお互いをいちじくの葉で覆い隠し、園の木の間に神様から隠れました。もしここで、神様が「あなたはどこにいるのか」と問うことがなく見逃されたままになったらどうなるでしょうか。彼らは、園の中に主なる神の足音が聞こえてくる度に逃げ隠れする逃亡者の人生を歩むことになります。ですから、ここでちゃんと神様の御前に立たせられることは必要です。
信仰を与えられるというのは、神様の御前に立つ者となるということです。堂々と立つのではありません。木の間に隠れるような思いで、御前に立つ。いや跪く(ひさまづく)。信仰者と雖も他の人には言えないことを抱えていますから。信仰者になったら少しはましな人間になるかと思ったら自分自身は全然変わらない。洗礼を受けて気が付く実感かもしれません。でも変わったことがある。それは「あなたはどこにいるのか」の問かけ、その神様の眼差しの中で、隠れないで神様の御前にいる者とされたということです。いつもご免なさいと言いながら、御前に跪く。なぜ出来るかというと、洗礼を受けた私たちは、キリストを着させて戴いていることを知っているからです。裸のままではとても御前には出られないものを抱えながらも、御前に出て跪くことが出来る。
キリストを着ていることを抜きに、裸のままでキリスト者であることは出来ません。キリストを着るとどうなるかということについてパウロはこう言います。「あなた方は皆、信仰により(=信仰を通して)、キリスト・イエスに結ばれて(=にあって)神の子なのです」(ガラテヤ三・二六)。結ばれてというのは英語で言えば「イン」です。打ち砕かれた心を包む(イザヤ六一・一)という言い方もありますが、キリスト・イエスにあって、キリスト・イエスの内に、包まれてという意味合いがありますね。神様の御前ではキリストを着た、キリストの内にある者として見てもらえる。そしてキリストを着ているので、神の子の姿です。罪の子ではなく、逃げ隠れする者ではなく御前にある神の子の姿です。
キリストを着て、キリストの内にある私たち。これと反対の視点から語る言葉もありました。これも洗礼を受けたことを語っています。「私はキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラテヤ二・一九~)。キリストが私の内に生きておられるのか、私がキリストを着てキリストの内に見てもらえる。どちらが正しいのかという議論ではありません。キリストが私の内に生きている。これはキリストが私の内に生きておられるから、こういう生き方が出来るという視点です。以前、教会学校の教師が「自分が今、説教している。それはキリストが私の内に生きているからだ」という証しの言葉を紹介しましたが、これは自分が外に向かって生きている姿です。それに対して今日のキリストを着てキリストの内にあるというのは、神様からご覧になってどう見て戴いているのかという姿です。
生きる姿は人夫々です。召命に従って自分の中のキリストに導かれて生きる。神様の御前ではキリストを着て、包まれて、罪が覆われてキリスト者として御前で安んじて生きる。
キリストを着た事についてパウロは続けてこう語ります。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなた方は皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ三・二八)。神様の眼差しの中にあっては、皆、一つです。昔は、民族衣装がはっきりしていました。今日、和服というと高価で特別な時に着るイメージがあるかもしれませんが、江戸時代までは、皆、日本人は日常の服も和服でした。他の国々も夫々民族衣装があって、服は民族を表したのでしょう。また同じ国の中でも服が大人と子ども、男と女、その他社会的地位を表すのも普通のことです。
でも神様の御前では裸であり、かつ、キリストを着た者は全て、地上では様々な違い、生まれや性別、貧富、民族や国籍の違いがあっても御前では神の子として一つです。ここに人格の基礎があると言えます。またここに地上の全ての隔てを取り除いていく平和への営みの根拠もあります。
そして、もう一つ語るなら、人生の最期のこと。葬儀の準備、棺に納棺するにあたって、何をお召しになりますかと聞かれます。もちろんその人らしいお召し物で良い訳ですが、信仰者の視点から言えば、キリストを着る訳です。キリストをまとい、天に召されます。
そして更に、地上の人生の向こう側では、神様は全ての人にキリストを着させて御前に立たせて下さると信じます。「あなたはどこにいるのか」と尋ね出して下さって、全ての人をキリストを着る幸いの中に包み込んで下さいます。