イザヤ書40章3~5a節
ルカによる福音書1章5~18節
今日は、ルカ福音書から説教します。次回の家族友だち礼拝の時の聖書箇所が一章五七節以下の洗礼者ヨハネの誕生の箇所に決まっているので、その前提となるヨハネの誕生の予告の箇所を選びました。今日の説教題は「あなたの願いは聞き入れられた」。祈りのことを念頭に説教します。
まずそれに先立ち、洗礼者ヨハネのことを…。洗礼者ヨハネは主イエスに洗礼を授けた人物で、一五節以下に天使が説明しています。「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」。救い主の登場に先立って現れるエリヤの役割を担ったのがこのヨハネ。そしてイザヤ書四〇章で「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、私たちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷は全て身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る」と言われている、呼びかける声になったのが、このヨハネです。
洗礼者ヨハネの両親については五節以下「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めを全て守り、非の打ち所がなかった。しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」。そしてザカリアは祭司、妻のエリサベトもアロン家の祭司の家系です。
ザカリアが祭司として聖所でその務めを果たしていると、思いがけない出来事が起こりました。一一節以下です。すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」。エリサベトの受胎の告知です。願いと言っても祈りと言ってもいい。願いは聞き入れられた。素晴らしい善き事が告げられました。
それに対するザカリアの反応は、そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、私はそれを知ることができるのでしょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています」。素直に喜びません。起こるはずがない、不可能だと思えたからです。
祈り願っているのに、常識的に考えてあり得ないからと、本人はそれが聞き入れられるとは実は本気では思っていない。同じような例は、例えば使徒言行録一二章にもあります。ペトロが捕らえられてしまった。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた(五節)。ペトロは天使に助け出されて、大勢の人が集まっていたヨハネの母マリアの家(それが教会だったのでしょう)に行った。ロデでという女中が取次ぎをします。 でも、教会の人々はロデに言う。あなたは気が変になっているのだ(一五節)とロデの報告を本気で聞こうとしない。客観的に考えると、牢から解放されるなんて、ましてペトロがここに来ているなんてあり得ないと思ったからです。
どちらの場合も、熱心に祈っていたのに、祈っている本人たちが、それが実現するとなると疑ってしまう。そんなに疑っているなら祈りは聞かれないということになりそうな所ですが、祈りは届いて願い通りになる。願いは聞き入れられた!
主イエスもこう言っておられます。「はっきり言っておく。あなた方が私の名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。願いなさい。そうすれば与えられ、あなた方は喜びで満たされる」(ヨハネ一六・二三―二四)。主イエスの御名によって願う。主イエスが「願いなさい」と仰って下さるのです。主イエスの御名によって祈るとき、主イエスが執り成して下さいます。また主イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないと教えて下さいました(ルカ一八・一)。
だから皆さん、祈りましょう。私たち祈る側も、主イエスの御名によって祈るとき、独り言ではなく神の御前で祈る姿勢になります。内容も我儘な祈りにはならないでしょう。こう言うと、祈るとき、主イエスの御名によって祈るのに相応しい祈りとそうでない祈りがあるような言い方になりますが、主イエスは「私の名によって何かを父に願うならば」と仰いました。祈りの内容に制限はありません。ただ執り成して戴くのですから、自ずと祈りの姿勢は整うでしょう。
天使はあなたの願いは聞き入れられたと告げました。こちら側の願いの善し悪しを考えるより、御心に適って聞き入れられる。神様が聞き入れて下さる事に思いを向ける方が大切です。二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいる(マタイ一八・二〇)とも約束下さいました。聞いていて下さるし、聞き入れて下さいます。
ところで、今長老会は、教会の夢や幻を描こうとしています。それに先立って、こういう夢や幻があったらいいな、それが実現しますようにと祈りをささげる必要に思い至っています。祈りながら夢や幻が形になっていくと考えています。皆さんも祈って下さいませんか。週報に祈祷課題を載せてもいいかもしれません。祈りを合わせていきます。夢、幻です。実現可能かということは考えなくてもいい。願いは聞き入れられるのですから! まず幻を描いて祈る。教会の幻だけでなく差し迫った課題も良いと思います。皆さんも日頃より祈っておられることですが、例えば、入院治療するから祈って欲しい。ご本人の了解が得られるなら、それも週報に載せても良い。そして祈りを合わせる。祈祷会だけでなく夫々の所で祈り、祈りを合わせる。素晴らしいですね。河内長野教会は将来に向けて、実現可能性を考えるに先立って、二人、三人、そして皆で祈りを合わせることから出発したいと思います。祈りへの招きです。
話を戻しますが、しかしそれでも祈りや願いは聞き入れられるのかと思ってしまいます。主イエスのオリーブ山の祈りを思い起こしてみますと、「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私の願いではなく、御心のままに行って下さい」(ルカ二二・四二)。主イエスは願ったのですが杯は取りのけられなかった。十字架のご受難を引き受けることになります。そのように主イエスは祈りにおいて父なる神の御心に従いました。またそれが十字架の神の愛となって現れていきます。主イエスの願いは退けられたようでも、実は「御心のままに」の祈りは聞き入れられ御心が成就していきます。
またパウロもある祈りの経験を語っています。自分の身に生じたとげを取り去って下さるように三度主に願った時の経験です。すると主は「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました(Ⅱコリント一二・九)。とげは取り去られませんでしたが、でも確かに聞き入れられました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょうと満足しました。
あなたの願いは聞き入れられた、ザカリアは、このお告げをすぐには信じなかった。人間の合理的な判断からすれば、むしろ当然です。彼の課題は更に、自分の願いの不可能性に捕われただけでなく、神が願いを聞き入れて下さることを疑ったことにあります。私たちは、自分の願いが実現すること以上に、神様が御心に従って聞き入れて下さることを信じましょう。ザカリアは時が来れば実現する天使の言葉を信じなかったので、以後しばらく口が利けなくなってしまいます(ルカ一・二〇)。それは罰を受けたというより、「あなたの願いは聞き入れられた」という天使の告げた言葉に繰り返し思いを馳せることへと導かれたのだと言えるでしょう。
待降節、アドヴェントです。アドヴェンチャー(=冒険)と語源は同じです。日本語で冒険と言うと、こちらから冒険に出かけ挑んで行くようなイメージがありますが、元々は向こう側から起こって来る出来事から逃げずに絡みつくことです。 同じ受胎告知でもマリアの場合は、結婚以前に自分が子を宿すなんて思ってもいなかった。それどころか、そうなったら困る、大変だと思った。しかし彼女は応えました。「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」。神の側からの思いがけない言葉に絡みつく。マリアもこの日から、天使のお告げのお言葉に繰り返し思いを馳せ心に刻み続けたに違いありません。それでこそ、この困難を受け止め乗り越えていくことが出来ます。ザカリアにしてもマリアにしても、主の御言葉に背を向けることなく絡みついて行く。これが待降節に相応しい姿勢になりました。