日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年7月23日 説教:森田恭一郎牧師

「あなたの義を以て、助けて下さい」

詩編七一・一~三
ルカ一八・九~一四

今週も続けて詩編五〇編から招詞の聖句に選びました。告白を神への生けにえとして献げ、いと高き神に満願の献げ物をせよ。それから私を呼ぶが良い。苦難の日、私はお前を救おう。そのことによって、お前は私の栄光を輝かすであろう (詩編五〇・一四~一五)。当教会の理念は「栄光、神に在れ」。教会の、私たちの信仰の姿勢として常に心に留めておきたいと願います。この詩編が私たちに教えてくれることがあります。それは、栄光を神様に帰するために、私たちが信仰者として何か立派な行いをしなければならない、のではないということです。むしろ罪を告白すること、苦難の日に「助けて下さい」と神様を呼ぶことが大切なのだと、詩編は私たちに呼びかけています。

 

さて、告白を神への生けにえとして献げ、いと高き神に満願の献げ物をささげることについて、福音書の譬え話から味わいたいと思います。自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次の譬えを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった」(ルカ一八・九~)。 私たちはもしかすると、人前で祈る時、あるいは人前で証しをする時、このファリサイ派のようにならねばならないと、どこかで思っているかもしれません。「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」。このファリサイ派の人の祈り、そして実際にささげている献金や日頃の生活は立派なものです。が、仮に立派になれると、心の姿勢には高ぶりが出てきてしまいます。私たちにとっても難しい所です。この人の心の姿勢は、神の前でというより、自分に対しまた人々に対し、自分を誇っている姿です。

 

一方の徴税人はと言いますと、へりくだる祈りの姿勢です。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんで下さい』。主イエスはこの二人の姿を見ながらこう言われました。「義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。徴税人が義とされて家に帰ることが出来た理由は何でしょうか。ここで注意が必要です。徴税人が義とされたのは、彼のへりくだった道徳的な謙虚さの故だ、と理解してはいけません。この譬え話は一見、へりくだりを賞賛しているように読めますが、そもそもこの譬え話は、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、語られた譬え話です。それで「自分は正しい」と誇る高ぶりを戒めている訳です。そうであるなら、徴税人が義とされたのは何故か。彼の道徳的へりくだりの故ではありません。もしそうなら、徴税人はその道徳的なへりくだりを誇り、高ぶる人を見下げるようになってしまいかねない。それではファリサイ派の人と同じです。

徴税人が義とされたのは、キリストの恵みの御業のお蔭です。十字架で主イエスが全ての人の高ぶりも含めた罪を負って下さったからです。今日の旧約聖書の詩編、恵みの御業によって助け、逃れさせて下さいと祈ります(詩編七一・二)。自分の道徳的な謙虚さの故ではありません。恵みの御業によってです。口語訳聖書では、あなたの義によって私を助け、私を救い出して下さい。口語訳の方が直訳のようです。この詩人があの徴税人のように義とされて家に帰ることが出来るとしたら、それは神様御自身の義の故です。神様が御自分の義を、私たちにプレゼントとして与えて下さって私たちは義とされるのです。自分が立派に正しくなって義となるのではありません。

 

そして詩人は祈りの言葉を加えて、あなたの耳を私に傾け、お救い下さいと祈ります。あの徴税人は、主イエスに耳を傾けて戴けたのですね。思えば、祈りは神様が耳を傾けて下さると信じるから祈りをささげることが出来る。徴税人のへりくだりを語るとするなら、主が耳を傾けて下さることへの信頼です。そして、罪さえも耳を傾けて受けとめて下さる神様への信頼があります。だからこそ、そこから罪の告白も生じました。罪の告白は、自分を反省し、自分を責めるところから生じるのではありません。聞いて下さる信頼からです。

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