日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年8月15日 説教:森田恭一郎牧師

「あなたこそ、私の神」

ヘブライ 八・七~一三

 

旧約聖書、新約聖書と言いますが、その「約」は約束、契約の約です。契約の中身は実は旧約時代から変わりません。「私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」(ヘブライ八・一〇)。でも旧約時代を通して課題が明らかになりました。真の神様が彼らの神様になって下さった。であるのに、彼らはその民であり続けることが出来なかった、ということです。それで神様がどう為さったかをヘブライ書は、今日の箇所ではエレミヤ書を引用しながら明らかにしています。

 

ところで、今日は丁度、敗戦記念日です。敗戦国は普通に考えたら多額の賠償金を課せられます。でも幸いなことに日本はそうはなりませんでした。第一次世界大戦の敗戦国ドイツが、多額の賠償金を課せられて、後のナチスの台頭に繋がった反省を踏まえての処置でした。日本は賠償金の返済義務ではなく、それまでの富国強兵に代わる新しい国作りが期待されました。日本にとっては恵みでした。あの終戦を敗戦記念日として思い起こすことの意義は、この恵みをいつも新しく自覚することにあります。基本的人権、国民主権、平和主義の福祉国家観に基づく国作りを期待されましたし、自ら期待しました。日本国憲法がこのことを高らかに謳っています。当時の人たちは、戦後の食糧難の中にあっても、戦争が終わったことだけでなく日本は新しくなったと喜んだそうです。

当時のことを体験していない戦後生まれの戦後育ちの人たちは、日本国憲法が謳う新しい国家理念に基づく生活が、当たり前になっており、新しさを感じなくなっているとも言えます。

ヘブライ書は新しさを再確認している書物であると言えます。再確認するのは福音の新しさを実感できなくなっているからです。迫害が起こる中でキリストの神様が本当にいるのかと、福音の幸いが見えなくなる。神の民とされている事実が見えなくなっている。そこで、旧約聖書のエレミヤ書を引用して、新しい契約に立ち帰っています。「見よ、私がイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る」(ヘブライ八・八)。

 

神様が結んで下さる新しい契約、契約の新しさとは何か。四つ挙げてみました「それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない」。その旧い契約とは「彼らは私の契約に忠実でなかったので、私も彼らを顧みなかった」(ヘブライ八・九)。それに対して新しい契約は「私は、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない」(ヘブライ八・一二)。これがこの契約の新しさの一つ目です。

彼らは神様の契約に忠実でなかったので、神様は彼らを顧みなくても当然なのに、むしろ不義を赦し、彼らの罪を思い出しはしない。これは、ただ無罪放免というのではない。言うまでもなく、旧い契約から新しい契約への移行をもたらしたのは、キリストの十字架です。キリストが十字架で自らを犠牲にして下さったからこそ、実現した「不義を赦す」ということになった。恵みです。この恵みのお蔭で「彼らは私の民となる」訳です。

 

不義を赦し民として戴いたのは、民として立派になったからではない。真の神が彼らの神となって下さっても、彼らは真の神様の民になりきれなかった。それは新しい契約でも同じです。私たちもまた、今日に至るまで不義のままです。でも民であり続けられるのは不義をあの十字架の贖いのお蔭で赦して戴いたからです。

ここでよくよく考えて気付くべき事は、新しい契約を神様は誰と結ばれたのかということです。「それらの日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである」(ヘブライ八・一〇)とありますが、契約の相手は新しいイスラエル、教会です。しかし、教会の私たち一人ひとりではない。教会の頭であられるイエス・キリストと契約を新たに結ばれた。新しさの二つ目です。それで主イエスは、大祭司となり、自らを犠牲としてささげ私たちの罪を贖って下さった。もし、私たち一人ひとりと契約を結ばれたのなら、きっと、私たちもこうなります。「彼らは私の契約に忠実でなかったので、私も彼らを顧みなかった」。でもそうはなりませんでした。神はキリストと契約を結び、そのキリストの体なる教会に私たちを招き入れて下さった。

 

新しい契約の根拠は、神の民とされる私たちの側の立派さにあるのではなく大祭司であるキリストにある。このキリストお蔭で、新しい契約が有効になった。有効になったのは全ての人に対してです。これが新しさの三つ目です。「小さなものから大きなものに至るまで、彼らは全て、私を知るようになる」(ヘブライ八・一一)。もっともエレミヤ自身は、イスラエルの民の全てを考えていたことでしょう。「彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に、『主を知れ』と言って教える必要はなくなる」(ヘブライ八・一一)と同胞のことを考えていた。でも主イエス・キリストがもたらしたものは、民族を越えて世界の全ての人への福音でした。ユダヤ民族宗教から世界宗教になりました。

ただ私たちは、課題を感じています。「主を知れ」と教える必要はなくなる、とは言っても、全ての人が教会に集う訳ではないことを。家族友だち礼拝にお誘い下さいと教会は呼びかけますが、これが容易ではないことを皆さんよく知っています。子どもや孫に、あるいは妻や夫に、そして友だちに、声をかけてもなかなか効果はない…、一緒に出かけようでということになかなかならないと思ってしまいます…。それでいつしか誘いの声もかけなくなることになりかねない。でもいつも私たちを教会に送り出してくれることを感謝しましょう。そして結果はともかく、月一回、声をかけ続けて下さい。また配信で一緒に耳を傾けてみましょう。それで一回でも二回でも、一人でも二人でも、礼拝に集って戴けたなら、それだけでも実に幸いなことです。

これを続けられるのは、私たちの側の努力の故ではありません。神様が「『主を知れ』と言って教える必要はなくなる」。「あなた方は私の民となる」と言って下さるからです。祈りつつ、神様のこのみ言葉の光の中に家族や友だちを見い出し続けていきましょう。

 

契約の新しさの四つ目は、「私の律法を彼らの思いにおき、彼らの心にそれを書き付けよう」(ヘブライ八・一〇)。旧い契約は石の板に刻まれました。それに対して新しい契約は、神様が私たちの思いに置き、心に書き付けられます。

以前にも申し上げましたが、河内長野教会は、この会堂を献堂しました時に扉の上に「栄光神に在れ」と記しました。百年誌を編纂しました折りには「栄光神に在れ」と表題をつけました。これを新たに思い出すことをきっかけに、今の私たちも、この言葉を私たちの思いに置き、心に書き付けたいです。いや、これを私たちの思いに置き、心に刻むのは私たち自身ではありません。

聖霊がして下さると信じます。信仰者として歩みを続ける中で、キリストが私の神になって下さって本当に良かったとしみじみ思う、教会に連なって民の一員に加えられて、教会に育てられてきて良かったとつくづく思う。度ある毎に新しく思い起こします。それは聖霊の導きによるものですね。その都度「栄光神に在れ」「あなた方は私の民となる」が心に刻み込まれている。そう導かれていると信じます。