出エジプト記三・一〇~一二
ルカ 一・二六~三八
天使がマリアの所に遣わされてやって来ました。そしてこう告げました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ一・二八)。おめでとう、喜びの知らせです。何故かというと、主があなたと共におられるからです。クリスマスは「インマヌエル=神は我々と共におられる」(マタイ一・二三)ということが明らかになった出来事です。神様が共にいて下さるなら、独りぼっちにならず寂しくなくていいですね。心強いですね。 今日は、神様が共におられるということを、私たちはどう受け取りお応えしたら良いのか、このことについて思いを深めます。
マリアはどうしたのか。マリアはこの言葉に戸惑い、一体この挨拶は何のことかと考え込んだのでした。そして天使が答えます。「マリア、恐れることはない。あなたは神様から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。マリアの戸惑いと天使の答えの間にどの位の時間があったのか。ほんの一瞬の内に天使の言葉が続いたのかもしれません。でもそこでマリアはここで「考え込んだ」のでした。一回だけサラッと考えたというのではありません。たとえ一瞬の内であったとしても、何度も深く考え込んだのでした。よく、走馬灯のように、と言います。その一瞬に自分の過去の風景がクルクルっと現れてくる。そういう一瞬というのがある。マリアの場合には過去の風景というより、神様が迫ってくる。何でこの私に? 神様はこの私に何をしようとなさっておられるの? 神様の迫りを巡ってクルクルと色々考え込んだのでした。そして天使から「あなたは男の子を産む。その子は偉大な人になり、いと高き方(=神様)の子と言われる」。こう言われて益々考え込んだ。そして問いかけた。「どうして、そのような事があり得ましょうか」。神様の御業が、このこの私に、この私の人生に起こる? 自分が今、ここに生きている。これからも生きていく、自分の人生、何のための人生か、何のために人生が与えられたのか。人生を生きる私とは一体誰なのか。
マリアが考え込んだこの問を受けた人は、実は聖書にたくさん登場します。今日は旧約聖書からモーセを紹介しましょう。神様がモーセにこう告げました。「今、行きなさい。私はあなたをファラオのもとに遣わす。我が民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト記三・一〇)。モーセは言いました。「私は何者でしょう」。
神様の答えはこれでした。「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」。
この聖書のお話しから分かる事、それは、神様が共におられるということは、独りぼっちにならないから寂しくならなくて助かる、という話で終わらないということです。神様がモーセの人生を用いて下さり、神様の御業を実現していかれる。この自分が用いられる神様のご計画に、自分もアーメンと応えて人生を歩んで行くということです。自分が立派だからではなく、選び出されて使命に生きる。そして神様が「連れ出す、導き出す」(出エジプト記三・一〇、一二)と仰って、どこへ向かうのかというと「あなたたちはこの山で神に仕える」。人々が礼拝者になる。礼拝者として自らををささげていく、神様の栄光をたたえていく。
話をマリアに戻します。マリアは考え込んだ。そして見えてくる。そうだ、神様の御業が起こるのだ。そのために私の人生はある! 神様の迫りを身に受け、考え込んで、そしてマリアはこう応えました。「私は主のはしため(=僕の女性形)です。お言葉通り、この身になりますように」。日本語には訳出されていませんが、「見て下さい。私は主のはしためです」。神様の前に隠れる私ではなく、見てもらう中での人生を歩み出します。これがマリアの応答。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」の言葉は、神様の栄光のために人生をささげていく応答を求めます。
この後、洗礼式を執り行います。洗礼を受けるというのは、主イエス・キリストが共にいて下さることへの応答です。洗礼を授ける神様の御前に、主イエスがこの自分を選び出して下さったその迫りを受けとめ、主の御前に見てもらう中で人生を歩ませて下さる。洗礼は、神様の栄光のために歩み神様に仕えていく。そういう自分の始まりです。