「神は愛、ここに愛」

森田恭一郎牧師

(申命記 七・六―八、Ⅰヨハネ四・七―一〇)

ここに愛があります。ここに神の愛が私たちの内に示されました(一〇節、九節)。ヨハネは、ここに愛があると神の愛を発見して、驚いています。また、感動しています。本当に愛がある。愛というものがある。

愛は神から出るもの(七節)だと語ります。そうなんです。愛は人から出るものではない。もし、神様がおられず、神様がお造りになった人間でなかったら、人間の歴史の中に、人間の造る社会の中に、愛はないという事です。だから、歴史の中に愛があり、相手を愛する者がいるならば、その愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている(七節)のだとヨハネは自信を以て語ります。

この自分が、愛することをしており、神から生まれ、神を知っているなんて、そんなことがあるだろうかと、自分を見ればそう思うかもしれません。しかし、自分自身の弱さの故に遠慮するのではなく、愛は神から出るものなのですから、もし自分が誰かを少しでも愛する者となっているなら、成る程、自分は神から生まれた者なのだと遠慮なく考えたら良いのです。信仰を以て、こんな自分が神から生まれているのだと、自分を誇ると言う意味ではなく、神を賛美したら良い。何故か? 神は愛だからです。

神が愛であられるというのは、神は、独り子を世にお遣わしになりました(九節)。先週の御言葉で言うとイエス・キリストが肉となって来られた(二節)ということです。肉を以て生きる、この事の故に、弱さを抱え、身体の痛みの辛さを抱えている私たち。この私たちの人生がイエス・キリストによって体験され覚えられている。そして私たちの罪を贖うために、神は独り子を世にお遣わしになりました。それは、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛がある(一〇節)とある通りです。そしてここに神の愛が私たちの内に示されました(九節)。

私たちはキリストのここ以外にも愛を知っているではないかと思うかもしれない。私たち自身の愛もあるではないかと言いたくなるかもしれない。キリスト教徒でなくても相手を愛することはあるではないかと考えますね。「愛は地球を救う。二四時間テレビ」とか…。でもヨハネは、キリストのここに起源を持たず、ここ以外にあるものは愛ではないとはっきり語っている。

申命記七章。主が心引かれてあなたたちを選ばれた(七節)。この聖書個所を読み、私が個人的にいつも思い起こすエピソードがあります。あるカトリックの雑誌に載っていたものです。中学か高校時代に読みました。文章の前後関係は忘れましたが、この部分だけ覚えていますので、今日も紹介したい。

ある夫婦がおりまして、妻が「何故あなたは私と結婚したの」と問かけた。それで、丁度新聞を読んでいた夫である彼は、新聞を見ながら「なんで俺が君と結婚したかって?」。何て答えたと思いますか…。彼はボソッと答えました。「そうだなぁ、俺、あの時馬鹿だったからな…」。皆さんが妻の立場だったら、どう思われますか。「えっ、あなた、あの時馬鹿だったから私と結婚したというの?」。彼女は怒ってしまって家を飛び出して、親しい先輩の所に行って、やりきれない気持ちをぶちまけます。「うちの旦那ったらね、ひどいの、馬鹿だったから私と結婚したんだって」。それを聞いた先輩の友人はそれを聞いて、ちょっと考えて答えます。「それって、良かったんじゃない」。妻の方はそれを聞いて「?」。すぐには理解できません。先輩はおもむろに語ります。「じゃぁ、もしね、その時彼が利口だったらどうなる?」。利口だったら色んなことを考える。損得を計算する。例えば、料理が上手か、スタイルも顔も綺麗かとか。立場が反対でも同じです。どこの大学を卒業して、会社は有望な会社でお給料はどの位か。家や財産があって、両親を世話するときには自分にまわってくるか等々。「利口ってそういうこと。馬鹿ならそんなこと関係なく、あなたと一緒になったんでしょ。最高よ」。これを聞いて「計算しないで私と一緒になってくれたんだな」と思い直したという話。皆さんだったら?

それで申命記の言葉に戻りますと。主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた(六節)のは何故だったのか。それはあなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない(七節)。数が多ければ国力は増します。日本は今、人口減少の課題に直面している。人口が多いと言うのは祝福だと改めて思います。また当時の事、人口が多いというのは、兵隊の数が多いという事でもあります。軍隊が強いということです。経済力があり軍事力があれば政治力も増す。そういうイスラエルの国だったから神様はイスラエルを選ばれた、というのではないというのです。

そういうことで言うなら、むしろあなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。それなのに、貧弱なイスラエルの民を選ばれたのは、主が心引かれて、そしてただ、あなたに対する主の愛の故に(八節)というのが理由です。それであなたは、あなたの神、主の聖なる民である、あなたの神、主は、御自分の宝の民とされたというのです。それは主なる神様が、何といわば利口ではなく馬鹿になって、ただ愛の故に心引かれたからです。

ヨハネも、これと同じように語っています。神は愛だからです。神の愛には損得勘定の計算はない。そもそも愛というのは、一つの言い方ですが、損をすることです。相手のために尽くすことですから。見返りを求めず、相手に仕えることですから。損得計算をして愛するとしたら、その愛は利口になって愛している。もうそれは、少なくとも聖書の語る神の愛とは言えない。本当の意味で愛する者は、だから神から生まれ、神を知っていると言える訳です。

神様は徹底的に馬鹿になって下さって、私たち、貧弱な私たちであるどころか、罪深い私たちを、神様の愛を裏切るような私たちを愛して下さり、私たちの罪を償うために御子をお遣わしになり、十字架にお付けになって、罪を贖ういけにえ(新共同訳では償うと訳しておりますが、贖うと言って良いでしょう)、贖ういけにえとして御子を遣わしささげて下さった。そして、ここに愛がある。この歴史的主イエスを見た時に、私たちの内に神の愛が示された。ヨハネはこう言って、神の愛を発見し感動しています。これは他に見出すことが出来ない、他ではなくここにある愛です。ヨハネは私たちにこう断言しています。

ヨハネはそして、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してと言います。愛は神からのものです。神が私たちを愛して下さって、私たちは、自分が愛されたものだということを知っている。ヨハネはこれを知っているが故に、断言することが出来る。神は愛であると。愛されていることを知っているからです。

愛は損をすることだと言いました。お給料がどの位か、学歴はどうなの、スタイルはいいの? 色々な付加価値の故に、その人を愛するというのではない。あなたは神様に愛された存在、あなたは存在そのものが愛されている。そこに人間の価値ではなく、尊厳があります。神が私たちを愛して下さった。それ故に私たちは尊厳ある者とされている。相手を愛する理由を敢えて言えば、その尊厳の故に、そして尊厳の根拠は神様ご自身ですから、ただご自身の愛の故に、私はあなたを愛すると神様は言って下さるし、私たちも愛されていると言える。ただ愛の故に神様はあなた方を選ばれた。そして相手を愛することが可能となる。このことを今日は、素朴に、そのままに聖書の言葉から受け止めてアーメンと言いたい。

ここからどういう私たちの姿、また生き方が出て来るのか。神の内に留まる姿、互いに愛し合いましょうという生き方でありますが、それは一一節以下でまた次回以降、御言葉を味わって参りたいと思います。

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