「語り伝えよ、主の物語」

森田恭一郎牧師

(申命記一三・二―五、Ⅰヨハネ四・一―七)

今日は、偽預言者と、イエス・キリストが肉となって来られたことについて思いを深めます。

まず偽預言者について。当時、預言者であれ偽預言者であれ「自分は霊によって語っている、だから私の言っていることは本当だ」と信じていることを語った。キリストが肉となって来られたことを否定する者もいた。それで、引きずられないように真偽を聞き分ける必要があった。

当時は、救い主がどういう方なのか、教会として曖昧な所があった。世界信条もプロテスタント信仰告白もなかった。新約聖書もなかったから、信仰と生活の規準となるものがまだありません。毎週の礼拝を重ねる中で、本当に人々を救い、教会の礼拝に相応しい、救い主の姿を言い表す信仰の言葉が振り分けられ整えられていきました。「キリストが肉となって来られた」の言葉もその一つ。ヨハネは、これが自分たちの救いにとって必要だと語り、これを公に言い表すこと、そのように導く霊は全て神から出たものだと、真偽を見分け、偽預言者を排する規準を明らかにしました。

今日は、誰が偽預言者かを見つけ出す発想ではなく、自分の物語という視点から、考えてみたい。

申命記一三章、ここに預言者や夢占いする者が出てきます。ヨハネ風に言ったら偽預言者です。イスラエルの民の中に預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言った通り実現したとき、とあります。ほら私の言ったことは本当だろ、と「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われて、イスラエルの神よりも、この預言者や夢占いの人たちの神々の方が、もしかすると自分には救いになる、幸せになるかも…と考えてしまう。そのように誘われることがあったとしても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならないと申命記は一生懸命語ります。

そして、あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。これは、試してお前は駄目だと裁くことが狙いなのではなく、むしろここで、あなたこそ私たちの真の神様ですとイスラエルが応えてくれることへと導き、それを喜びたいというのが御心ですね。

現代も、夢占いとか、星座だとか、手相だとか、色々ある訳ですが、皆さんがこれらのものに心奪われている事はないでしょう。それでいいのです。けれども私たちも、その代わりに、何かある物語を信じている場合があるのではないか。

物語については先月の家族友だち礼拝の時に絵本を用いてお話をしました。絵本を開いて物語を聴くと、日頃自分が知らない世界がそこに広がる。預言者や夢占いも、言ってみれば彼らの語る物語です。占い師が語れば、それは偽者だと分かるのですが、私たちも社会も幸せになりたいと色々な物語を持っています。例えば良い学校を出て、やりがいのある会社に入ってお金儲け出来れば幸せになれるとか。あるいは、自国第一主義。アメリカファースト。それがまかり通る。以前にも都知事選挙で都民ファースト。これも物語。それで盛り上がって当選してしまう。何故、市民がそれに乗るのか。それはきっと、自分の物語と共鳴する所があるからでしょう。自分の人生がこうなったらいいなと描く自分の人生の物語と重なります。

私たちは、どういう物語に心を捉えられ、どういう物語に捉えられるといいのか? それが今日の説教の課題です。私たちは、神様の救いの物語に捉えられたい。教会に来ることなく聖書を閉じて聖書から聞かなかったら、絶対聞こえてこない神の救いの物語と世界がある。イスラエルの神様の事、主イエスの十字架と復活の出来事…。聖書から聞く中で、神様の救いの物語を私たちは知り、受け止め、神様の救いの物語に私たちの心も捉えられていく。大事なことです。

救いの物語と言いました。改めて救いとは何か。それは、罪人なる私たちが神の子とされること。もちろん、主イエスは神の御子であるというのとは意味が違います。私たちが神様になる訳ではありませんから。思えば、旧新約聖書の約は約束の約、契約の約ですが、その内容を神さまが語ります。「私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」とか「私はあなたの神となり、あなたは私の子となる」と。神と民、神と子たちの関係になる、それが救いです。この方こそ真の神、私はこの真の神の子とされていると言える。偽の神様が自分の神だとしたらどうなっちゃいますか? 真の神に礼拝をささげることが出来る。幸いなことです。

マルコ福音書五章に、汚れた霊に取り憑かれた人が登場します。この人は墓場を住まいとしており、最早、誰も鎖を用いてさえ繋ぎ留めて置くことが出来なかった人でした。いつからこうなってしまったか分かりませんが、それまでは、自分の人生の物語をそれなりに描いていたに違いない。なのに、それとは全然違う悪霊の物語の中に引きずり込まれてしまった。周囲の人たちからも嫌がられる有様になってしまった。

しかし、そこに主イエスが到来して、神の救いの物語を提示し、救って下さった。そして一九節「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにして下さったことを悉く知らせなさい」。主の物語が彼に留まり展開し始めた、それを悉く知らせる。この自分が悪霊の物語ではなく、救い主、主イエス・キリストの物語の中に生き始めたのだ! 皆さんもまた、主イエス・キリストの物語の中に生き始めたと語り伝えることが出来るでしょう。

以上が今日お話ししたい、偽預言、夢占いなどの、私たちにとっての意味です。偽の物語ではなく、神の救いの物語に生きようということです。

二番目、キリストが肉となって来られたこと。マルコ福音書六章、主イエスの故郷での話です。イエスの事を赤ちゃんの時から知っている多くの人たちが、イエスを見、その話を聞いて驚きました。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」。まるで、本当の預言者か偽の預言者かと問いかけているような言葉です。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」。主イエスが公のご生涯を始めて、すごい事を言い始めた、やり始めた。それは人々にしてみれば、自分たちがイエスに思い描いていた物語とは全然違う。それで驚いた。そしてこのように、人々はイエスに躓いた。

主イエスは、人として肉となってこの世に到来なさいました。その結果起こったことは、この人は、大工ではないか…。普通の人と全く同じ生活体験をされたという事です。主イエスは、およそ三〇歳になって公の生涯を始めました。恐らく主イエスの家庭は、母子家庭でした。ヨセフの後を継いで母マリアと共に生活を立てて行かねばならなかった。弟たちや妹たちがそれなりに独り立ちする見当がつく、それが三〇歳までかかった。そこには汗だくの労苦も含めて人生の体験があった。人間の喜怒哀楽も主イエスがご自身の事としてよく分かっておられる。

ヘブライ書の聖句を思い起こすのも有益です。

それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです(二・一八、四・一五も参照)。私たちの人生の事も、罪の事も良く分かっていらっしゃる。これを背負うために、イエス・キリストは肉となって来られた。人として受肉された、これはとっても大事なことなのだとヨハネは強調している訳です。

医療・看護・介護・福祉、私たちの肉体や日々の生活に関する仕事ですね。これは大事。何故か? それはイエス・キリストが肉となってこの世にお出でになったからです。私たちが肉体を以て生きている事を神様が大事にされている。それが主イエスのお姿から分かったからです。

教会で偽預言者たちは、神たる御子は肉を持ってなんかいない。あのナザレのイエスは普通の人間に神の霊が宿っただけで、大事なのは神の霊なのだ。だから我々も神の霊によって救われること、人の霊が肉体から自由になることが救いであると、我々が肉体を以て生きていることを否定的に捉えたようです。そこでは私たちが日々の生活を応援し支えながら生きて行こう、愛し合って生きるということは抜けて行く。

だからヨハネは互いに愛し合うことを一生懸命語ります(三・一一)。そうでなかったら、洗礼受けたらすぐ死んで、さっさと天国に行った方が良いなんて話になりかねない。洗礼を受けて地上をしっかり生きて行くことに意味があります。

これから聖餐に与ります。パンと杯、キリストのお体と血潮です。今日の聖餐に於いては、イエス・キリストが肉となって、私たちと同じになられたことを感謝を以て受け止め、また、私たちが地上に生きている事を神様がキリストにあって大事になさっておられるその恵みに与りたい。

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