「アベルの叫び、カインの願い」

森田恭一郎牧師

(創世記四・一〇―一六、Ⅰヨハネ三・一九―二四)

私たちの心、良心が自分自身を責めることがあります。いつも責め立てられていると思う人もおられるかもしれません。でも、神は、私たちの心よりも大きく、全てをご存じ(三・二〇)です。今日は、神様が私たちの心よりも大きいという事に想いを馳せ、神の大きさに包まれたいと願います。

一八節から読んでみましょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いを以て誠実に愛し合おう。これによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます、心に責められることがあろうとも。もし「あなたは、言葉や口先だけではなく、行いを以て誠実に愛し合っていますか」と問われたら、心が繊細な人ほど、心が責められる思いになるに違いありません。きっとそうなのであって、またそのことを忘れてはいけませんが、今日は敢えて、私たちの行いや誠実さがどれだけあるかを測ることより、神様の行いや誠実さの大きさに想いを向けたい。そのことがあって、結果的にささやかではありましょうけれど私たちの側のあり方が変わる。

と言いますのは、一八節の誠実、これは一九節の自分が真理に属している、の真理という言葉です。直訳すれば、行いと真理を以て愛し合おう。私たちの側の誠実さというよりも、私たちが属する真理は神様の真理ですから、神様の真理を以て愛し合おうということです。でも、私たちの愛が言葉や口先だけになってしまうということがある。残念だけれども、認めざるを得ません。ヨハネが心に責められることがあろうともと語る通り私たちの姿です。でも同時に、たとえそうであっても、神の御前で安心できます。安心できるのは、何故なら(とギリシャ語本文にはあって)、神は、私たちの心よりも大きく、全てをご存じだからです。安心できる理由として神の大きさを語っています。

もっとも、二一節以下でこう語ります。愛する者たち、私たちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことが出来、神に願うことは何でも叶えられます。心に責められることのない人なんているのか、また、願い事が叶うのは心に責められることのない人だけなのか。むしろ心に責められることがある人こそ、願うことが一杯ありそうなものなのに、と思えてしまいます。

ヨハネが語る理由はこうです。二二節後半から。私たちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うことです。

私たちの側がどうであれ、御子イエス・キリストの名を信じていい! 神さまは大きいから安心していい。それで、神の大きさについて、併せて、全てをご存じであることにも思いを巡らしたい。全てをご存知と言われると、何か隠し事していても神様にはお見通しで嘘をつけない、そんなイメージがあります。それは間違いではないのですが、我々の罪の故に、神はそれを許容せずにお心を小さくしてしまわれるのではなく、私たち人間が罪人であることを、全て知っておられて、だからこそこの罪人を救おうとなさった。私たちの罪を全てご存じである尚そこで、神様はお心が大きい。

今日の説教題を「アベルの叫び、カインの願い」と致しました。それは一二節に登場してくるからです。前回、触れずにおりました。カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。

二人はアダムとエバの息子たちで兄弟です。兄のカインが、弟のアベルを殺してしまう。創世記四章にその話が載っています。この二人が大きくなってから、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかったということが起こりました。何故、神様がカインとそのささげものを顧みられなかったのか理由は分かりません。カインの側に落ち度はなかったと言って良いでしょう。だからカインにとっては不条理です。

それで彼は怒り、自分の感情をコントロール出来ないままに、神様に文句をぶつけもせず、弟アベルを殺してしまいました。お前さえいなければ、神様は私のささげものを受け取ってくれたのにと思い込んだのでしょう。思えば、何も悪いことをしていないのに殺されたアベルにとっても不条理です。主はカインに言われた。「お前の弟アベルは、どこにいるのか」。カインは答えた。「知りません。私は弟の番人でしょうか」。カインは知らないふりをしますが、神様は全てをご存知です。

それで今日は一〇節から。主は言われた。「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中から私に向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりも尚、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさ迷い、さすらう者となる」。

まずアベルの叫びです。殺されたアベルの血が土の中から叫ぶ。何を叫んでいるのでしょうか。「私は何も悪いことをしていないのにカインに殺されたんです。カインの罪を放っておかないで厳しく裁いて下さい」。こういう叫びでしょうか。

最近、アクセルとブレーキの踏み間違いで車が暴走して事故になるケースが続きました。被害者の遺族は再発防止を願い、今後加害者に厳罰を課するようにその法整備を求めています。ご遺族の気持ちとすればよく分かります。でも厳罰を処せば、再発しなくなるでしょうか。社会からその事故は無くなるでしょうか。むしろ、免許更新の期間を短くするなど、事故を起こしてからではなく起こる前に出来る手立てを考える方が良いのではないか。叫びの内容も他の可能性はないのか。

旧約聖書もキリストを証しする書物です。キリストを思い起こしつつ黙想しますと…、主イエスは、十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈られました。可能性としてアベルもまた「神様、カインをお赦し下さい」と祈りの叫びをあげた、と新約聖書の主イエスを知る私たちは考えることが出来ます。ヘブル書に、アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています(へブル一一・四)とあります。この可能性は、信仰によって救い主に想いを向ける所から開けて来る可能性です。

一方、カインはこの祈りの叫びの中身は聞いていません。神様から、アベルの血が叫んでいると言われただけです。カインの願いはどのようなものでしょうか。カインは主に言った(一三節)とありますが、これは願い事と言って良いでしょう。「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、私が御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者は誰であれ、私を殺すでしょう」。どうぞ追放しないで下さい、赦して下さいと願っている訳です。

神様は全てをご存知です。カインの罪も、カインの願いも、アベルの叫びも、キリストの執り成しも、全てご存知です。神様はここで、アベルの執り成しの叫びの祈りを踏まえ、またカインの願いを聴き入れカインに言われました。「いや、それゆえカインを殺す者は、誰であれ七倍の復讐を受けるであろう」。主はカインに出会う者が誰も彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。カインはただ無罪放免ではありません。今までいた所から出て、罪を犯した結果は負わねばなりません。また、神様は、このアベルの叫びの訴えを聴いてカインがエデンで土を耕しても作物がならない罰を課しました。でも、赦しのしるしを付けて戴いて歩む者となりました。神様はカインを追放なさらなかった。御顔を隠すことはなさらなかった。なる程、神様は全てをご存じで、私たちの心よりも大きい。

カインが赦しを願い得たのは、神様の赦しを信じたからです。ヨハネの言い方で言えば、神の子イエス・キリストの名を信じたから。そして互いに愛し合う(二三節)、カインはそういう生き方を目指したことでしょう。それは赦しを受け、そこに愛を見出したからです。カインはその後結婚しました。愛し合って生きたのではないでしょうか。

ヨハネは続けて言いました。神の掟を守る人は、神の内にいつも留まり、神もその人の内に留まって下さいます。神が私たちの内に留まって下さることは、神が与えて下さった〝霊〟によって分かります(二四節)。神様が、その人の内に留まり、聖霊を与えて下さる!

そうならば私たちも、神のみ前で確信を持つことが出来、心に責められることのない者となる。そしてアベルの立場になってしまったら大胆にも神に叫び、カインの立場になってしまったら大胆にも神に願う者として戴ける。どちらも、キリストの御前に立ち、キリストを想い起こしつつ、キリストにある赦しを信じて歩む者となる訳です。

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