「母からか、神からか」

森田恭一郎牧師

(ヨブ記一・二〇―二二、Ⅰヨハネ三・四―一八)

今日はⅠヨハネ三・四―一八の二回目の説教です。前回は特に一六節の、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。このみ言葉のインパクトをやり過ごさないようにしようと思いを傾けました。

今日思いを傾ける御言葉も同様です。六節、御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しませんと、九節、神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。罪を犯さないなんて、インパクトありますね。私たちはどうしても罪を犯すからです。

詩編五一編七節でダビデは告白します。私は咎の内に産み落とされ、母が私を身ごもった時も、私は罪の内にあったのです。ここから、罪は遺伝すると言いたいのではありません。母の胎にあった時から罪の内にあったと言わざるを得ない程に、今生きている自分は罪人でしかないと語っている訳です。ヨハネ自身が私たちの罪人であることを語っていました(一・八節以下)。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、私たちの罪、いや、私たちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。私たちが罪人でしかないことも、そしてその私たちの罪を赦し、全世界の罪を贖うためにキリストがおられるということも、ヨハネは分かっている訳です。更にヨハネは言葉を重ねています。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉は私たちの内にありません(一・一〇)。語気を荒げているようです。キリストの命をかけた贖いをまるで不必要であるかのように罪を犯したことがないと言ってのけることは、キリストの贖いを無駄にし、神を偽り者とすることになるのだと。私たちは贖いを必要とする罪人でしかない訳です。

であるのにヨハネは、罪を犯しません、加えて罪を犯すことができませんと語る。ここで私たちは、ヨハネは自己矛盾になっていないかと戸惑います。ヨハネにしてみると、私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです(二・一)。罪人が罪を犯さなくなる可能性を考えているとも言えます。でもそれは無理なのでは…と訝しく思える訳です。

罪を犯さない、罪を犯せない、敢えてこの可能性について考えると…。罪を、キリスト者であることを辞める事だと考えれば、考えられないことはない。私たちは、キリスト者であることを辞めるなんて出来ないし、キリストを神としない信仰者でなかった時代を思い起こすことも無理だし、戻りたくもない。自分が弱い存在で、毎週の生活の中で何度も何度も神様の事を忘れてしまう者、だからこそ、キリストの贖いが必要であるからです。その意味で罪は犯さない、犯せないですね。

因みに、卒業クリスチャンをどう考えたらいいのか。信仰者であることをやめたのか。洗礼を受けて、キリスト教の事は大体分かったから、もう教会に行かなくても、自分一人で、神様に祈るから大丈夫と考える。あるいはキリスト教は自分にとっては期待外れだったからもう教会にはいかないと判断する。それに、なまじ教会に行くと、奉仕はあるし献金もある。教会に行くのをやめようと思ったりもする。自分を神様にささげる喜び、これを味わっていないようです。

こういうケースは、キリストから離れたというより、教会から離れた。その問題点は、教会から離れたままでキリストに繋がっていられると誤解している点にあるのではないかと思います。

話を戻しますが、罪を犯さない、犯せない可能性は他にあるのでしょうか。旧約聖書に登場するヨブ。 ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪を剃り落とし、地にひれ伏して言った。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった(ヨブ記一・二〇―二二)。

ご承知の通り、このヨブ記は実話ではなく言ってみれば小説です。この作品でのヨブは、仮に罪のない人がいるとしたら、どういう点が問題として浮かび上がってくるのかという設定の物語です。人間は御利益がなくても神を敬うか、御利益どころか苦難の中で神を敬えるか、苦難の意味は何か、ヨブ記のテーマです。とっても興味深く面白いのですが今日は割愛します。ただ、この聖句を愛唱聖句にしている方もおられるのではないですか。人生経験として、自分は何も悪いことはしていないのに、主は奪うという不条理に出くわす。そのような時、尚そこで「主の御名はほめたたえられよ、栄光、神に在れ」と言う。そう言える信仰者になれたらいいな、そのような信仰に憧れます。

このヨブの体験、不条理の中でも御名をほめたたえる信仰体験、以前、その証を伺ったことがあります。七十代の男性です。連れ合いが病になり、手術することになって、病室から笑顔で見送った。そして手術室から出てきて時には亡くなった妻を迎えることとなった。それ程危険な手術ではなかったはずなのに…。彼の証は、このヨブ記の聖句で自分が支えられたというものでした。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。もちろん、何故ですかと込み上げてくる神様への問いかけがあり文句も言ったでしょう。大変な慟哭であったに違いない。その日から男やもめの生活です。でもヨブのように出来たのです。何故出来たのか。

証はともかくヨハネはどういう者が罪を犯さず、罪を犯せないと言っているのか、注目しましょう。六節、御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。それから九節も神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。御子の内にいつもいるからです。神から生まれた人だからです。神の種があるからです。それで、神から生まれたので罪を犯すことが出来ません…。いや、私たちは母から咎の内に生まれたのではなかったか。

結論を言えば、聖霊によって導かれ支えられるからです。それが神から生まれるということです。主イエスも、誰でも水と霊とによって生まれなければ(ヨハネ三・五)と語られました。手紙のヨハネが、罪を犯さない、犯せないと語る可能性について二番目に考えられることは…。罪を犯さない、犯せないというのは、人間の側の可能性ではない。もしかすると私たちは何か勘違いしているかもしれない。自分は、罪を犯すか犯さないか、その中間にいて自分で判断して罪を犯したり犯さなかったりして生きていると。もし信仰者の決意や頑張りで罪を犯さなくなると考えるのなら、それはその人の傲慢以外の何ものでもありません。地上で、この歴史の中で、完全な人間になれるはずがないからです。

ですから、もし地上の歴史において、ヨハネの語るように、罪を犯さない、犯せないとなり得るとしたら、それは聖霊のお支えのお蔭です。聖霊がお働きになるのであればなる程、罪を犯すはずがありません。罪を犯せるはずもありません。

ヨハネはここでは、神の種という表現はあっても、直接聖霊について言及していません。代わりに、御父や御子の御業を語ります。御子イエスの血によってあらゆる罪から清められる(一・七)など、罪を犯さないのは皆、神の御業によります。人間の独力で救いを勝ち取れないのですから、神の御業と導きが不可欠です。ですから神の御業を私たちに繋ぐ聖霊を拒まないことが大事です。

ヨハネは語ります。罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです(三・四)。人間は皆、法に背いて罪を犯します。いわゆる刑法犯だけではありません。神を礼拝しないで自分が神になる罪、隣人を愛さないで自分中心になる罪。神を拝し、隣人を愛する。この律法を私たちは知っています。でも出来ない。エレミヤはこう預言しました。「しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」(エレミヤ三一・三三)。石の板に書かれた律法を知っているのではない。主が胸の中に授け、心に記す。それは聖霊の導きです。律法の要求が満たされるのは、人間の力によるのではない。聖霊によります。

ダビデも、母の胎にある時から罪の内にあった、と告白した後、こう言いました。神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないで下さい(五一・一二―一三)。

ヨブは、このような時にも神を非難することなく罪を犯さなかった。それは物語だからヨブに出来たのではありません。あの証をして下さった方も罪を犯さなかった。そして、皆さんも、聖霊によって同じです。これを大胆に信じましょう。

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