「望みと確信」

森田恭一郎牧師

(民数記八・一三、Ⅰヨハネ二・二八―三・三)

「中間時」という言葉があります。二度に亘るキリストの到来の間の中間時です。

初めの到来についてヨハネはこの書簡の最初にこう述べていました。私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触ったもの(一・一)。使徒たちは、復活の主イエスに至るまで、実際に出会いました。私たちは二千年前の主イエスのお姿に会うことはない訳ですが、新約聖書、殊に福音書が記す記事を通して、そのお姿を知っている訳です。そして再臨のキリストがおいでになるまでは私たちも中間時を生きていることになります。

また終末の到来について、ヨハネは今日の聖書箇所に幾つか記しています。後の節から見ますとまず、御子をありのままに見る(三・二)。キリストが再び到来なさるのですから。パウロも言います。中間時の今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だが(終わりの)その時には、顔と顔とを合わせて見ることになる(Ⅰコリント一三・一二)。

次に、御子が現れる時、御子に似たものとなるということを知っています(三・二)。パウロは表現は異なりますが同様の事を記しています。キリストは、万物を支配下に置くことさえ出来る力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じに形に変えて下さるのです(フィリピ三・二一)。似るとか同じ形に変えられるというのは、朽ちない体への変容も意味するにしても、もっと人間にとっての本質的な事柄を語っています。人間を創造為さった時に「神は御自分にかたどって人を創造された(創世記一・二七)のでした。これも外見上の姿ではなく、神に愛されるものとして本来創造された。このことが、終末の完成の時には明らかになる、それが似たもの、同じ形になることです。

終末の完成について更に、御子の現れる時、確信を持つことが出来、御子が来られる時、御前で恥じ入るようなことがありません(二・二八)。確信を持つというのは、大胆に言うという意味合いがある言葉です。終末の時、主イエスを前にして、大胆にキリスト告白出来るということです。

そう告白出来たら、御前に恥じることはない。パウロも私は福音を恥としない(ローマ一・一六)。ペトロもしかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神を崇めなさい(Ⅰペトロ四・一六)。地上の困難にあっても恥じないように奨めるなら、終末には一層恥じないでいいことが明確になるでありましょう。

古来、教会が教理上、馬鹿にされたりするのは二種類あります。一つは、主イエスの神性を認めないものです。ユダヤ教はこれにあたります。イエスは預言者の一人でしかありません。またローマ社会では、ローマ皇帝が神なのであって、これに反する仕方でイエスを神だとすると迫害が起こったりした。

もう一つは、主イエスの人性を認めない。ヨハネの教会はこれを内側に抱えていました。信仰で大事なのは、例えば神と一体化することだ。イエスの出生後に宿った神、それだけでいい、神ご自身が処女マリアから生まれ、肉体を持ったとか、神たるものが人間になり十字架のかかって死ぬなんて、神にあるはずがないという訳です。

この両サイドから、教会の内外から、キリストの神人両性についての教会の信仰が批判される。

ヨハネ福音書九章に生まれつきの目の不自由な人の癒しの記事があります。誰のせいでこうなったのかの問いに、誰のせいでもない、これから神の業がこの人に現れるためであると宣言なさった。そして土をこねてその目に塗り「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。池まで一キロ以上あったようです。でも彼自身は、目が見えないまま、主イエスから離れて池に向かいますが、思いは主イエスの内にいつも留まって、繰り返し、主イエスの言葉を反芻したに違いない。これから神の業が私に現れるって…、こんなこと言って下さった方は今まで一人もいない。自分は神に見捨てられて目が不自由であったのではなかったのだ。神様はこれ程に私を愛しておられたのだ、と何度も考えたことでしょう。

この道程が、私たち信仰者の地上の人生ではないかと思います。肉眼は見えても主イエスを見ることは出来ない。信仰の目で主イエスのお姿を描き、信仰の耳で御言葉を聞いて歩んで行く。目が見えるようになって帰ってくると、周りの人たちは、誰が癒して下さったのかと問うてくる。そしてイエスがメシア=キリストだと公に言い表すと会堂から追放されることになる(九・二二参照)。それがヨハネ福音書の教会の置かれていた中間時の社会状況です。彼らもまた、御子の内に繋がり、御父の愛を考えることが必須になっていた。

それで、手紙のヨハネはこうやって生きた。御子にこの望みをかけている(三・三)。これが信じるということですね。それにしても、望みをかける。こう表現する時というのは、他には可能性がなくなって、そのことに望みをかけるしかないという切羽詰まった状況で言われる言葉ですね。

パウロも言いました。パウロは言いました。私たちはこのような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものを誰が尚、望むでしょうか(ローマ八・二四)。パウロも御子に望みをかけて生きている、と信仰者の有り様を語る。このことが中間時に生きるキリスト教徒の姿です。この手紙でヨハネも希望に触れて語っているのは偶然ではないでしょう。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます(三・三)。信仰と希望ですが、信じるとは希望を持つことです。御子に望みをかけることです。

因みに、望みをかけるとは思い込むことでしょうか。根拠がないのに思い込んでしまう。教会はこの批判にもさらされた。イエスが神であり人である信仰なんて思い込んでいるだけではないか。

パウロも批判を受けた。Ⅰコリント一五章、ここは主イエスや私たちの復活の話しですが、それを批判する人がいた。甦りなんてあるはずはない。この常識的な思いから、信仰を持ったらその時点で霊魂は肉体から自由にされて救われているのだから、甦りなんて…と彼らは言う。それに対してパウロは、単なる思い込みであるなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です(Ⅰコリント一五・一四)。またあなた方の信仰は空しく、私たちもこの世の生活でキリストの望みをかけているだけだとすれば、私たちは全ての人の中で最も惨めな者です(Ⅰコリント一五・一七以下)。しかし実際、キリストは死者の中から復活なさった。私たちの初穂として。だから思い込みではない。真実に望みをかけていい。御子に望みをかけるのは、甦りの根拠があるからだ。

このように、御子に望みをかけるならば、私たち自身は更にどういう生き方になるのでしょう。私たちは御子が清いように自分を清めます(三・三)。清めるとは、民数記にもレビ人をイスラエルの人々から区別すると、レビ人は私のものとなる(八・一三)とありますように、区別、聖別すること、神さまに捧げるために神さまのために取っておくことです。ハイデルベルグ信仰問答の最初の問は、生きるにしても死ぬにしてもあなたの唯一の慰めは何ですか。この慰めがあるから生まれてきて良かった、今生きていて良いのだ、これからも生きていこう、死ぬときだって安心だと思える。その答えは、キリストのものであること。清めるとは、キリストのものとなること。それが唯一の慰めなのです。このように心の清い人は幸い、神を見るようになるだろう(未来形、マタイ五・八参照)。そして似た者になる。

もう一つ記してあるのは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う・・・(二・二九)。義を行う。御父に愛されて、神の愛が伝わるように互いに愛し合うということです。

ヨハネは教会に教会の人たちに二つの事を働きかけます。さて、子たちよ、御子の内にいつも留まりなさい(二・二八)。それから、御父がどれほど私たちを愛して下さるか、考えなさい(三・一)。

私たちは中間時に生きる信仰者です。とは言いましても、私たちは弱い。周囲からも信仰を問われ、時には自分自身も信仰者なのに色々と壁にぶつかると信仰の揺らぐときもある。清くなりきれない。義を行なって生きることが出来ない…。だからこそ、御父がどれ程私たちを愛して下さるか考えなさい。これを忘れないためには、礼拝に招かれ出席する。そうでないと考えられなくなる。周囲の状況や自分の弱さだけに思いが巡ってしまう。礼拝でこそ御子の内にとどまり続け、御父の愛がどれ程であるか考えることが不可欠です。私はやはりキリストに愛されている存在だと、確信を以て望みをかけていいのだと。

礼拝に出席できない方が少しでも教会に繋がり、私たちはその方たちを覚えて祈り、教会に繋がるパイプ役になろう…と願うものであります。

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