「主の御業、守り続けよ、岩の上」

森田恭一郎牧師

(詩編三一・二―七、黙示録二・一八―二九)

本日は創立記念礼拝です。当教会は長野講義所設立申請以来一一四年の歴史を刻んできました。申請までの期間や、そもそもA・D・ヘール宣教師をクリスマス礼拝に迎えた日曜学校の歴史もあり、この前史を加えるともっと長い歴史になります。

創立記念礼拝であることを覚え、説教題を「主の御業、守り続けよ、岩の上」としました。教会が教会として建ち続ける、そのために一番大切なことは、今日招詞で読みました聖句、私はこの岩の上に私の教会を建てる(マタイ一六・一八)と主イエスがおっしゃった通りのことです。岩の上に教会は建つ。砂の上では駄目、流されてしまう。この岩とは何なのか。信仰です。

主イエスはお問いになりました。それでは、あなた方は私を何者だと言うのか。シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。この信仰です。それを受けて主イエスが「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、私の天の父なのだ。私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てる。陰府の力もこれに対抗出来ない」と言われました。ナザレのイエスをメシア=キリスト、生ける神の子と言い表す信仰、この信仰の上に教会は建つのだと主イエスが約束なさいました。

今日は旧約聖書から詩編三一編。砦の岩、城塞、私の大岩、私の砦といった言葉に気付きます。他の詩編では、逃れ場(詩編一八篇)という言葉も併せ見出します。いつもの小島誠志牧師の言葉を紹介します。「神は、何よりも、人がその方のもとに逃れるべき方だと言われています。人生は困難に満ちた旅であります。そして人間はもろい。強がる必要はありません。事あるごとに主のもとに逃れ、主の守りを戴きながら荒野を行くのです」。   

信仰者の人生もまた、荒野の中で、逃れる時には逃れるしかありません。どこに? それは神様の岩の上。これは信仰者も教会も同じです。岩の上に立ち続けなければなりません。神を信じる信仰、イエス・キリストが救い主だと告白する信仰、この上に立ち続ける限り、あなた方を支える、教会を建てると主イエスは約束なさいました。

そして今日はヨハネの黙示録。ティアティラの教会にあてた文章の所です。今日の箇所の中から中心聖句として二五節を特に覚えたいと思います。ただ、私が行くときまで、今持っているものを固く守れ。この今持っているものとは何なのか。これが今日の主題ともなります。

守れ。それは守れなくする力がこの世に絶えず働くからです。だから守れ。その力を脅かすものとは、しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている(二〇節~)。以下続きます。このイゼベルという女は、イスラエル王アハブが迎えた妻の名前です。イスラエル王の妻でありながら、異教徒であり、異教徒の信仰をイスラエルの中に持ち込んだ女性です。それは以前、ソロモンの妻たちも同じでありました。王が隣国との関係を良好に保つために政略結婚をすることは、政治の世界では当時もよくあったことで、それもまた一つの判断です。でも、イゼベルを迎えて、イスラエルの変えてはいけないことまでも変えてしまうこととなった。魂を売ってしまった。アハブ王はそれによって、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にも増して、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った(列王記上一六・三一~)。

黙示録は、このイゼベルの名を引いてきて、ティアティラの教会が、何につけ魂を売らないように注意を喚起しています。あるいは当時、実際にイゼベルという名の女性預言者が、ティアティラで影響を持っていたのかもしれない。どちらにせよ、信仰を脅かす魅惑的な存在、また教えでありました。そこで、影響を受けた教会員が悔い改めることを願い、残る教会員にはイエス・キリストを告白する信仰を守るように訴えている訳です。

イゼベルという名を言い換えて、ヨハネはこうも言います。ティアティラの人たちの中にいて、この女の教えを受け入れず、サタンのいわゆる奥深い秘密を知らないあなた方(二四節)。反対側から言いますと、この女の教えを受け入れてサタンのいわゆる奥深い秘密を知る人々もいるということですね。サタンのいわゆる奥深い秘密、随分謎めいた言い方です。世の中を上手に渡り歩くためにその要領を得て、この世の知恵を以て歩む人は、この秘密を知っているということかもしれない。キリスト教徒の方がその辺が甘いということもある。サタンの奥深い秘密を知らないあなた方というのはキリスト教徒の弱さを語っているのかもしれません。この世の子らは光の子らよりも賢い(ルカ一六・八参照)ということもあります。

ただ、私たちが何よりも弁えるべきは、キリストが誰よりも、十字架でサタンの奥深い秘密を知っている、サタンは裁かれ、罪は裁かれねばならない。キリストは罪の裁きとしての死を担われ、サタンの行く末の秘密を味わい尽くされました。

二二節終わりの所、その行いを悔い改めないなら、ひどい苦しみに遭わせよう。また、この女の子供たちも打ち殺そう、と何やら怖いことを言っておられますが、その真意は、こうして、全教会は、私が人の思いや判断を見通す者だということを悟るようになる。キリストがどういうお方なのか分かるようになる。滅ぼすことが目的なのではありません。主イエスが人の思いや判断を見通す者で、キリストであると分かるようになる、これが裁きの内容です。ヨハネは続けて、私はあなた方が行ったことに応じて一人一人に報いようと語ります。直訳は、行いに応じたことを一人ひとり与えよう、です。報いというより、人が生きたようにその結果が与えられるということでしょう。

そして、あなた方に別の重荷を負わせない。見方を変えると、別のものではない重荷はある。でもそれは意味のある重荷です。しかも既に今持っているものです。今持っている重荷とは、何を守るのか。私は、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている(一九節)と、キリストがティアティラの教会の人たちの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐をよく知っておられて、それを固く守れとおっしゃっておられます。

そして更に、あなたの近頃の行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っていると言われるのですから、ティアティラの教会もその行い、愛、信仰、奉仕、忍耐しながら歴史を重ねて来た。初めの頃から思うと成長してきたねと教会を祝福しておられる訳です。  

でも反省すべき点もある。しかしあなたに対して言うべきことがあると、あのイゼベルの話に続いて行きます。教会は歴史の中にある限り、祝福して戴ける部分とそうでない部分の両方を抱えて行かざるを得ません。今は未完成。だから、行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を固く守らねばならない。

守る。それは受け身のようなイメージがあるかもしれません。攻めて来る敵に対して防御する。しかし、今日、創立記念礼拝を迎えるにあたり、私たちの教会がその初めから大切にしてきたことを守るとは、消極的に受け身に守るという事ではないように思います。むしろ、時代の新たな状況の中で、造り上げて行くものです。教会の行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を新しく展開し造り上げて行くことです。

この一一四年の間、信仰の先達の方たちは、ただ守って来たのではないと思います。その都度、信仰の戦いを戦って、困難の時には忍耐しながら、福音を、信仰の告白をいつも新しく造り上げて来られたに違いありません。私たちは礼拝の中で信仰の告白をします。ただ文章を読んでいるだけの仕方で守っているなら、信仰は死んでしまう。形骸化してしまう。生き生きとした信仰は、日々生活の中で、本当にそうだと確認し造り上げて行く中で養われる。新しい思いの中で今日、告白していく。それでこそ、本当の意味で伝統を守ることが出来、次の世代にも伝えて行くことも出来ます。

先日の教育講演会の時に、講師から戴いた講演の題は「教会のみんなで子どもを育てよう」。これは守る姿勢ではありません。みんなで育てよう。積極的に子どもたちに関わり、福音を宣べ伝え、共に育っていく。攻めの言葉です。しかも、みんなで育てよう。歴史の流れに押し流されないようにみんなで協力し合って造り上げて行くときに初めて、歴史の中に伝統を前向きに守っていける。

当教会の掲げる「宣教、教育、奉仕」(「教会だより」一一号参照)。一一五年目を歩み出すにあたり、教会の営みも、このような積極的に造り上げて行く業だと受け止めたい。今年度は二つの講演を伺い、高齢者への配慮、子どもたちへの教育に想いを深めました。単なる知識を学んだのではありません。奉仕も教育も、それは行いとなり、愛となり、生きた信仰となり、希望が忍耐を支えます。

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