「傷ついた心を包む、真理知る」

森田恭一郎牧師

(イザヤ六一・一、Ⅰヨハネ二・一八―二七)

今日は二つ、一つ目は一八節の終わりの時が来ているについて、二つ目は二〇節の油を注がれているについて語ります。

まず、終わりの時というのはユダヤ教・キリスト教の歴史理解を表す言葉の一つです。時間・歴史とのは、春夏秋冬の繰り返し、ぐるぐる回って無限に続くというのではない。始まりの天地創造があり終わりの歴史の完成があるという理解です。終わりの時は、滅亡の時ではなく御国が到来する救いの完成の時です。主の祈りで御国を来たらせ給えと祈ります。これは終わりの完成を待ち望む祈りです。そして、歴史・地上にあっては未完成。完成までの間は少しでも、御心を地にも為させ給えと、信仰者として使命意識を以て生きて行けるようにと祈ります。

一八節でヨハネが語るのは、今や、終わりの時が来ていると言っている訳です。でも、この手紙が書かれてから千九百年経っています。それなのに終わりの時は来ていないではないかと言いたくなる所です。ヨハネの言いたいことは何か。世も世にある欲も過ぎ去って行きます(一七節)とあります。歴史はいずれ過ぎ去って行くものです。毎日の生活も日々、過ぎ去って行く。そして自分自身の存在もいずれ寿命が来てこの世から過ぎ去って行くものでしかありません。でもだからこそ、過ぎ去らない真理、イエス・キリストの御言葉に繋がっていたいのです。

過ぎ去る、この言葉はパウロも世の事に関わっている人は、関わりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです(Ⅰコリント七・三一)と語ります。そうは言っても、皆、世に関わって生きているのですから、それは過ぎ去るものだという事を分かって関わろう、この世の事で振り回されるなということです。噂話もいずれ過ぎ去るものです。成功も失敗もある。これにも振り回されるな。それが最終的なことではない。過ぎ去っていく、終わるものだ。

主イエスも同じ内容のことを語っておられます。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない(マルコ一三・三一)。いずれ天地は過ぎ去って行く。だから主イエスが明らかにしておられる決して滅びない真理の言葉に繋がっていることが肝要です。日々過ぎ去っていく終わりの時間を生きています。

次に二つ目、ヨハネはあなた方は聖なる方から油を注がれている(二〇節)ことを記します。同様に、いつもあなた方の内には、御子から注がれた油があります(二七節)とも記します。

注がれたという表現から、まず水による洗礼を思い浮かべます。成人洗礼を受けられた皆さんは、イエス・キリストを信じて洗礼を受けられました。幼児洗礼を受けられた方は後に信仰を告白します。イエス・キリストを信じる、それは、あのナザレのイエスと言われた人が、実は神の御子、神ご自身である。そういう救い主であると信じるということです。そして、その方が架かられた十字架は贖罪の十字架であったと信じるということです。

そして油。水による洗礼を受けた時に、実は油、聖霊を注がれています。洗礼式というあの儀式、古い自分に死んで新しくキリスト教徒になったということをそれによって公に現わしていきます。

これを単なる儀式としてだけ受け止めるとどうなるか、その問題点を今日の聖書は語っています。反キリストという言葉が何度となく出てきます。そして彼らは私たち(=教会)から去って行ってしまった(一九節)のですね。もともと仲間ではなかった。仲間だと思っていたのだけれども…というニュアンスを含んでいます。彼らも洗礼を受けていたからです。けれどもその彼らは、二二節では偽り者と言われ、イエスがメシアであることを否定する者であった。メシアとは油注がれた者という救い主を意味する言葉です。ナザレのイエスがメシア、キリストであることを否定した。あの十字架は贖罪の十字架だという事も否定するようになってしまった。自分たちは、父なる神様にだけ繋がっていればいいのだ、あのナザレのイエスはただの人であって神の御子ではないのだ、という異なる信仰の考えです。

今日の私たちは、何故教会の中にイエス・キリストを否定する人が出て来るの?と不思議に思いますが、当時は、新約聖書や信仰告白の文書が必ずしもはっきり決まっていた訳ではない。今日偽典と言われる今は新約聖書に入っていない福音書だってあった。イエスが誰なのか、人なのか神なのか、この大事なことが明確ではなかった。そのような中で、ヨハネはこの手紙で、イエスは人となられた神の御子だと一所懸命語っている。そしてイエス・キリストを告白する礼拝に耐えられる福音書や書簡などが後に新約聖書としてまとまっていった訳です。こういった時代背景を理解すると、手紙の内容が、なるほどそうかと分かる。

洗礼を受けたのに何故、そこから反キリストが現れて来るのか、当時の教会には戸惑いがありました。ヨハネ書簡とほぼ同時代のヨハネ福音書は一三章に洗足の記事を載せています。それ以前に記された共観福音書では、最後の晩餐の記事が載っている箇所にあたります。ヨハネ福音書は、洗足の記事を載せた。最後の晩餐に与る記事の代わりにです。洗礼を受け聖餐に与る、それだけでは、キリスト教徒として何か不十分で、確かだとは言えない何かをヨハネ福音書は感じている。儀式として洗礼を受け、儀式として聖餐に与っているだけでは駄目だ。その儀式に与るには真の信仰が必要だし、かつ、洗足が象徴する隣人愛に生きる、信仰によって生きる、これが伴わなければキリスト信者と言えないのではないか。こういう問いかけがヨハネ福音書にはある訳です。

同様の事をヨハネの手紙も語っていて、互いに愛し合おうではないか、「光の中にいる」と言いながら兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいますのと同じではないか(二章九節)、と既に語って来た。洗礼を受け聖餐に与っているなら、信仰によって生きている姿も伴うはずだ、と。

あなた方は聖なる方から油を注がれている(二〇節)、それは聖霊を注がれているということです。聖霊によって「イエスは主である」と告白することが出来る(Ⅰコリント一二・三)。その結果は、御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています(二三節)となります。信仰の告白をして御子と結ばれ、御父にも結ばれる。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。御子を認めない者は誰も、御父に結ばれていません(二二節以下)。御子に結ばれないで御父に直結することはない。ヨハネは、御子にしっかり結ばれる信仰を明確にし、そして御子が肉体を持った私たちを本当に愛されたように、御子の愛が伝わるように私たちも互いに愛し合って生きるのだ、と語る。

今日のイザヤ書、救い主の立場に立って語ります。主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私を捉えた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、繋がれている人には解放を告知させるために(六一・一)。こういう救い主キリストを父なる神が遣わされるのだと預言しています。

今日心に留めたいのは、打ち砕かれた心を包みの聖句です。包むと聖書が言う時、小包のように物を包むのではなく、心を包む。あるいは傷を包む(詩編一四七・三)という表現もあります。通常、傷は治すものです。消毒してばい菌を殺して治療する。しかし、神様が傷ついた心を抱えた人を治す時、悪い部分を除去する仕方では治さない、そのまま包み込むようにして治すのだと言う。お前は駄目な奴だと言われてしまったらそれまでです。私たちは駄目な所を抱えている。だから打ち砕かれた心を包んでもらってこそ癒される。傷を贖って戴いて救われていく。愛は包みます。ヨハネ福音書は洗足を以て隣人愛を表し、イザヤ書の聖句は傷ついた心を包むことを以て隣人を表しました。

主イエスを信じる信仰と、信仰によって生きるということ、この二つが両方伴ってキリスト者だということです。もっとも、あなたはちゃんと隣人を愛していますか、と問われれば、不十分な自分でしかない。だからこそ、その都度主イエスに赦して戴き包んで戴きながら、ここからまた歩み始めようと繰り返していく。それではキリスト者らしくないと言われてしまいそうですが、立派なキリスト者になるのは、いわゆる世の終わり、御国が来てから。御国が来るまでの間、自分の不完全さを抱え御心の天に成る如く地にも為させ給えと祈りつつ、一歩一歩、信仰によって歩んで行く。

そのために必要なことは、初めから聞いていたことを心に留めなさい。初めから聞いていたことがあなた方の内にあるならば、あなた方も御子の内に、また御父の内にいるでしょう(二四節)。正に私たちは御子の内に包まれ、御父の内に包まれるようにして生かされ、歩んでいるのですね。教会の営みは、弱く不完全な私たちが、しかし十字架によって罪贖われ、聖霊によって御父と御子に包まれるようにしながら歩んでいる。教会の礼拝は、聖霊の現臨に包まれている時であります。

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