「神を知っている」

森田恭一郎牧師

(エゼキエル書三三・二九―三三、Ⅰヨハネ二・三―一一)

三節に、私たちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かりますとあります。私たちが、神を知っていると言い得るのは、言うまでもなく、イエス・キリストを知ることによってです。イエス・キリストとの本当の関わりがあって、初めて神を知ることが出来ます。

七節で、愛する者たちとヨハネは呼びかけています。直訳すると愛されている者たちです。神様に愛されている、主イエスに愛されている者たちという意味です。そして続けて掟の話をします。私があなた方に書いているのは、新しい掟ではなく、あなた方が初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなた方が既に聞いたことのある言葉です。 神を愛すること、隣人を愛すること。旧約聖書に記され何度も聞いてきた、その意味では古い掟です。ヨハネはそれを、しかし私は新しい掟として書いていますと言います。

古い掟が主イエスにあって新しい掟になりました。まず私があなた方を愛しているのだ。隣人を愛するということは私において実現している。あなた方は愛されている者だ。そのように主イエスから聞くとき、人々も新しい掟として聞き受け止め直すことが出来る。そして掟を神の言葉と言い換えて五節、しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、私たちが神の内にいることが分かりますと語ります。隣人愛に生きる人の内には神の愛が実現しているという訳です。

今日は、私たちが掟を守る、神の言葉を守るとはどういうことか考えます。ポイントは、愛されている者として掟を守るのだということです。

ヨハネの手紙が書かれた教会では、こう言い切る人たちがおりました。「私は神を知っている」(二・四)、信仰をめぐって相当な自信家のようです。でもヨハネにしてみるとそれは眉唾物に思えました。というのは彼らには信仰の行いが伴っていなかったからです。ヨハネは言います。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。また彼らは「私は光の中にいる」(二・九)とも言い切りました。なるほど八節に、闇が去って、既にまことの光が輝いているからですとありますから彼らは光の中にいると考える。でもヨハネにしてみれば、問題点は同じです。「光の中にいる」と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。ヨハネから見ると、私は神を知っている、光の中にいると言っていても、彼らにはそれに相応しく掟を守っていない、むしろ、掟とは反対に兄弟を憎んでいる。それでは彼らの内に真理はなく闇の中にいるのだ、ということになります。

何故彼らは「私は神を知っている」などと自信ありげに言えたのか。この書簡が書かれたのは、恐らくヨハネ福音書より後、九〇年代後半以降です。その頃はまだ、イエスが「真の神にして真の人」であることが定まっていなかったからです。今日の私たちには意外ですが、その時代は、まだ新約聖書もなかった。マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四福音書はありましたが、今は偽典と言われる別の福音書もあった。主イエスについても色々な書かれ方があり、その中から、ナザレの人であるイエスを神の御子として描く四福音書が残った。主イエスに礼拝をささげる教会の歴史に耐え得るものが新約聖書としてまとまっていきました。

彼らはどうやら、その時代の思想を共有していたようです。神の御子たるものが、肉の体を持ち、十字架に死ぬなんて受け入れられないという思想です。仮にルカ福音書を知っていてもその理解の仕方がおかしくなる。例えば、洗礼を受けた時に神の霊が鳩のように下り(ルカ三・二二)、十字架上で「父よ、霊を委ねます」と亡くなる前に言われた(ルカ二三・四六)。この文章から、ナザレのイエスという普通の人間に、この間の一時期だけ神の霊が宿って奇跡などを行い、死ぬ直前に聖霊が抜けて、死んだのはまた普通の人であるナザレのイエスだ。神が一時的にナザレのイエスの姿をまとって現れたのだ。神たる者が死んだりするはずはない、と考えるからです。

また彼らは思った。自分たちが信じた時点で終末は到来した。我々の霊魂はもう天国にあって救われている。そこで我々は神を全て知っているのだ。肉体は言ってみれば抜け殻みたいなもので、肉体から自由になることが救いなのだ。だから肉体を抱えて生きる人生もさほど意味はなく、この世で苦労している隣人を愛する必要など全くない。

こういう誤った考えを持つ人たちがヨハネの教会の中にもいて教会の分裂もあった。それがこの手紙を書いた背景にあったようです。

言うまでもなく、処女マリアに宿ったのも十字架で死なれたのも、真の神、真の人であられる主イエス・キリストです。主イエスが生きた肉体の現実。だから人間が肉体をもって生きるこの世の現実もおろそかにしない。隣人を愛する。大切なことです。それで、私たちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。主イエスが肉体をもって歩み、同じように肉体をもって歩む私たちを愛されたように、私たちも肉体をもって歩む者同士として隣人を愛していく。その時に神を知るという経験をしていく訳です。

それにしても、ヨハネは私たちに大きな問いかけをしています。私たち信仰者は神の掟を守り、私たちが歩む生活に於いて神の愛が実現しているかと。今日の招きの言葉の聖句、御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません(ヤコブ一・二二)、あるいは旧約聖書の聖句、そして、彼らはあなた(=エゼキエル)のもとに来る。民は来て、あなたの前に座り、あなたの言葉を聞きはするが、それを行いはしない。彼らは口では好意を示すが、心は利益に向かっている(エゼキエル三三・三一以下)。聞くだけではいけないと分かっています。ならば私たちはどうなのか。

これは、自分の力で頑張って守って下さい、という話ではありません。それでは古い掟のままです。ヨハネは六節で言います。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません。この神の内にいると言う言葉は、主イエスがこう言われたお言葉、「私はまことのブドウの木。私に繋がっていなさい」(ヨハネ福音書一五章)と同じ。繋がるがいると同じです。主イエスに繋がっているから主イエスが歩まれたように歩む。そして七節の冒頭、愛された者たち、と呼びかけられる。主エスに繋がり主イエスに愛された者として歩むということです。

隣人愛は通常、隣人を愛する行為を表しますが、行為だけなら自分の力で隣人を愛することになりかねません。主イエスが新しい掟として示して下さった隣人愛は、神の愛が伝わるように隣人を愛するということです。

先週アブラハムの話をしました。星空の下で「あなたの子孫はこのようになる」。星空だけならいつもの星空だとアブラハムは思ったでしょう。またあなたの子孫は大いなる国民になるという神様の約束だけだと、アブラハムは信じられなくなります。でもあの時、あの星空と約束の御言葉がセットになった時に、アブラハムは主を信じた、思いがけない出来事が起こりました。そして神様はそれで良しとして下さった。

聖書を読めば神の愛は分かりそうなもの。でもそれだけなら知識で終わる。また隣人愛だけなら、あなたは優しい人ですねということで終わる。聖書の言葉と私に対する信仰者の隣人愛の行為が重なった時、神がこのような私を愛しておられることが実体験として分かるという出来事になる。

ヨハネは、キリストと繋がった新しい掟を語る。誤った人たちは、神を愛している、その知識だけで良かった。隣人を愛することはなかった。ヨハネはしかし、ただ知識の言葉が行為を伴うこと、単なる有言実行を勧めているのでもありません。行為と共に、神の愛が伝わることを求めています。

あなたは掟を守っているかと問われたら、はいとは言い切れない弱さを私たちは抱えています。でも思えば、それは終末が到来して初めて、全て成就することであって、それまでの地上の歩みにあっては不完全なままです。不完全でいいと開き直る訳ではありません。不完全だから、教会の礼拝をささげながら、自分は愛されている存在だと絶えず確認していく。そうである限り、私たちはあくまでも愛されている者です。

そういう者として隣人と普通に生活を共にしていると、相手の人は、この人は何か違うなと気付く。そして、この人はキリスト信者だと分かり、更にまた聖書の言葉を知ると、神様に愛されている人だなと合点が行く。私たちが神様に愛されている者として生き隣人と関わって歩むなら、きっと神の愛が相手の人に伝わっていくことでしょう。

それは掟をただ立派に守る歩みとは異なります。愛されている存在であることが滲み出てくる歩みです。それが新しい掟を生きることになります。

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