「天の星々、数えてごらん」

森田恭一郎牧師

(創世記一五・五―六、ガラテヤ三・六―七)

今日はアブラハムのお話です。創世記一五章ではアブラムという名前ですが、一七章で改めて契約を結ぶ所でアブラハムに名前が変わります。今日はアブラハムと呼ぶことにします。

アブラハムが七五歳の時、神様は突然お声をおかけになりました。一二章の最初の所です。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源になるように」。神様はアブラハムにお約束下さいました。私はあなたを大いなる国民にしますよ。あなたの子どもたち、子孫がたくさん増えて、アブラハムを通してみんな祝福されるようにしますよ。最初の約束をこのようにして下さいました。

そうか、神様は私に子ども授けて下さり、その子からまた子どもが授かって増えて行くんだな、多くの子どもたちになるんだ、みんな祝福されるんだ、神様がそう約束下さった。アブラハムはとっても嬉しくなりました。いつか子どもたちを授かる。みんなを祝福してあげよう。そう思って嬉しくなりました。

でも、一年経ち、二年経ち、三年経ち……、そして、はっきりは分かりませんが、もう十年近くにもなろうとしている頃です。子どもはなかなか授かりません。神様は確か、多くの子どもを与えて祝福してあげようとおっしゃって約束して下さったのに、おかしいな、もう私は、八〇歳、八一歳、八二歳……、どんどんお爺ちゃんになってしまう……。神様はお約束を忘れてしまわれたのかなぁ、アブラハムは、初めはとっても喜んでいたのに、いつしか、心配、心配、心配になりました。

そんな折に、今日は一五章、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ(一節)。アブラハムはその時、夜、眠っていて夢を見たのでしょうか、幻を見ました。主の言葉が響いてきました。「恐れるな、アブラムよ。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」。報い、これは何か手柄を立てた人へのご褒美ではありません。贈り物、プレゼントで す。あなたにプレゼントするから、ちゃんと子どもを授けてあげるから心配しないでいいですよ。そう神様が幻の中でおっしゃったのです。それを聞いたアブラハム、いくらそうおっしゃっても私には子どもがいません。神さま、授けて下さらないじゃないですか、と神様に文句を言います。

すると神様はおっしゃいました。「アブラハム、アブラハム、ちょっとこっちへおいで」とアブラハムを外に連れ出します。夜の外です。

前回、家族友だち礼拝の時には、ノアさんのお話をしました。悪い事ばかりしている人間たちを、これじゃ私も悲しいし人間たちだって辛いな、と神様が滅ぼしてしまわれるお話。それでノアさんとその家族、動物たち雄と雌一対ずつだけを箱舟に載せて助けてあげたお話です。(前回の虹の絵を見せながら)はい、これは虹。虹を見たら神様は思い起こします。人が心の思うことは幼い時から悪い。それをキリストが十字架で負うことにするから、二度と生き物を滅ぼすことをしないと神様がお決めになったお約束。虹が現れたらこのお約束を神様がまず思い起こして下さる。私たちも虹を見たら、神様のお約束を思い起こしましょう。

今日は、神様が幻の中にアブラハムに声をかけました。夜、外へ連れ出されました。(星空の絵、アブラハムを見せて)前回はここに出てきたのはノアさん。今日はアブラハムさんです。そこには星空が広がっています。神様がおっしゃいました。「天を仰いで」。アブラハムは星空を見上げます。星が一杯です。この絵もお星さま一杯です。

今、河内長野、どうですか。星がたくさん見えますか。綺麗な方でしょうね。大阪市内に行ったらこんなには見えないでしょうか。空気のとっても綺麗な山の上に行って空を見ると、本当にたくさんの星が見えるそうです。感動します。

でも、アブラハムにしてみると、こういう星空は実は毎晩見ている普通の風景です。乾燥している所に住んでいて空気が澄み切っている。星はとってもよく見える。それで、いつもの星空だなと思ったことでしょう。神様、何をおっしゃりたいのかな、星はたくさん見えるけれど、いつものことだよなと思ったことでしょう。こういう星、満天の星と言います。天に星々が満ちているということです。現代の私たちは見ることが出来なくなりました。昔は満天の星で数え切れなかった。

そして神様は、アブラハムを満天の星空の下に連れ出して「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」とおっしゃったのです。そう言われても、当然、数えられません。

そうしたら神様が続けて不思議なことをおっしゃいました。「あなたの子孫はこのようになる」。アブラハムはほんの一瞬、えっ? 自分の耳を疑ったかもしれません。私の子孫がこのようになる? 本当にこのようになる? まさか、と思ったのではないでしょうか。

星を見ているだけならいつもと変わらない、いつもの星空です。でもこの夜、この星空がいつもの夜とは違います。神様の御言葉がこの星空と共にあったのです! 星空が、御言葉なしにあるだけなら、ただの星々です。また御言葉だけなら、本当かなと心配で信じられない、聞き流すだけの御言葉になります。でも、御言葉とこの星空が共にあってセットになった。

そこでもう一度、この星空の下での御言葉を思い起こします。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」……。神様は「天を仰いで」とおっしゃいました。皆さんも気付いて下さいましたか。「空を仰いで」ではなく「天を仰いで」。私たちは主の祈りを祈ります。「天にまします我らの父よ」。空にまします…とは祈りません。その違い分かりますか? 天にましますというのは、神様がおられる所という意味です。神様がおられる所が天です。だから、単なる星空ではありません。天を仰いで星を数えてごらん。神様がおられるのですよ。神様がおられる天を仰いで数えてごらん。

そう言われた時、大空に広がる満天の星々は、空の星から天の星になった。満天の星と神の御言葉が重なった時、満天の星は、いつもとは異なる星々、神の御言葉=御心を証しする星々になった。

この時、出来事が起こりました。これらの満天の星が、ただ遠くに瞬く星々でなく、ぐうっと目の前に迫って来た。もう一つ聖書の言葉に気付いて欲しい。「あなたの子孫はこのようになる」。「あのようになる」ではない。新共同訳聖書は、このようになると訳しています。神様から「このようになる」と言われた時、あちらから、こちらに迫って来た。御言葉を証しする星々が、出来事となって迫って来た。

その時、アブラハムはどうなったか。アブラハムは主を信じた。主を信じる、というのは、アブラハムが立派だから、しっかりと決断したから信じましたというのではない。よく学び考え抜いて理解しましたというのでもない。あなたの子孫はこのようになる、という迫りの中でただただ「そうなんだ」。神様の御言葉が迫って来て「はいっ」と応えるしかない。立派だとか決断したとか理解したとか、もうそんな自分の側の問題ではない、確かに自分が信じる自分の事なのだけれども、自分には思いがけない出来事です。それでアブラハムは主を信じた。御言葉を証しする星々が、出来事となって迫って来る中、もうそれしかなかった。

神様は「それで良し」とそれを彼の義と認められた。洗礼を受けるかどうか迷っている人、これは自分が決断して洗礼を受けるというのではない。自分や自分の信仰が立派になったから、学んで理解したから洗礼を受ける資格が出来たという話ではない。神様の言葉が迫って来るから、アブラハムは主を信じた。そうならざるを得なかった。皆さんもそう。それを神様は「それで良し」として下さる。義と認めて下さいます。

神様の御言葉が迫ってくるようにと願っています。十字架のキリストが目の前にはっきりと示され(ガラテヤ三・一参照)迫って来る。聖霊が働いて、教会の礼拝がそういう出来事の体験の場、体験の時となりますように。

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