「キリストの光の中を歩みゆこう」

森田恭一郎牧師

(イザヤ書二・四―五、Ⅰヨハネ一・五―一〇)

神は光であり、神には闇が全くない(五節)。神が光であるとは? それは神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩む(七節)とあるように私たちの歩みに関わり、自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めて下さいます(九節)とあるように罪の告白と赦しに関わります。神は光であり真実で正しい方なので、罪を赦し不義から清めて下さる。私たちは光の中を歩みます。

人類は古来、太陽を神として拝んできました。エジプト文明然り、ローマも昔は冬至の頃に太陽の祭りがあって、それが後にキリスト教化されてクリスマスになりました。日本人も初日の出を拝みます。人間の自然な宗教感情を基にして、太陽を神とし光を神としてきた。でも聖書は、太陽もまた被造物でしかなく、まして拝む対象ではないことをはっきりさせています。

光が神なのではなく神が光です。A=BならばB=Aと論理学では置き換えることが出来ますが、光は神である、と逆は真にはなりません。神が光です。そしてヨハネ書簡はこれについて語ります。私たちがイエスから既に聞いていて、あなた方に伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです(五節)。つまり「神は光である」というのは、主イエスから聞いて分かること。一方ヨハネ福音書は「主イエスが光である」と記します。初めに言があった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった(一・一、四)。私は世にいる間、世の光である(九・五)等。主イエスは光として世に来られた。これを受けてヨハネ書簡は、主イエスの父なる神も光であると受けとめた。光である主イエスから聞き出会うことによって初めて、神は光であられると分かります。

ロシアの文豪トルストイの「光あるうち光の中を歩め」という小品があります。キリスト教徒のパンフィリウスと、なかなかキリスト教徒にならないユリウスが登場します。解説者の言葉で紹介します。「現世に絶望したり、自己嫌悪に陥ったりして、何度かパンフィリウスの住む世界へ走ろうと志しながら、その度に疑惑や迷いに阻まれて、俗世界に舞い戻ってはそこでまた一応の成功を収め、パンフィリウスの思想を否定するに至るユリウスの姿が、極めて生き生きと描かれている」。この世の価値観に縛られて言わば、繰り返し闇に追いつかれて光の内を歩み出せません。

そのユリウスが人生後半に入り晩年の二十年間、キリスト教徒になります。この作品の最後の所でトルストイはこう執筆します。「それでユリウスは安心した。兄弟たちのために全力を傾注して労苦しつつ生活を続けた。こうして彼は、喜びの内になお二十年生き延びた。そして肉体の死が訪れたのも知らなかった」。それで彼が安心したという「それで」とは、キリスト教徒のパンフィリウスの語った「光あるうち光の中を歩め」の言葉です。兄弟たちのために全力を傾注して労苦しつつ隣人愛に生きて人生を全うする。そして肉体の死が訪れたのも知らなかったという程に、死を恐れることなく最期の時を迎えることが出来ました。

このトルストイの言葉は、恐らく、ヨハネ福音書の聖句を基にする言葉です。光は、今しばらく、あなた方の間にある。暗闇に追いつかれないように、光のある内に歩きなさい(一二・三五)。パンフィリウスからこの言葉を聴いて、それでユリウスは安心して俗世界の価値観を超えてキリスト教徒になっていくのですが、それ程に「光あるうち光の中を歩め」の言葉はインパクトのある言葉なのだとトルストイは語っているようです。闇の中ではなく、光の中を歩めと招かれています!

光の中を歩むことについて福音書八章一節以下から考えます。律法学者たちが、姦通の現場で取り押さえられた女の人を連れて来て、律法違反したこんな人は石打の刑で罰せられるべきだ、赦せないと、主イエスに言ってきます。すると主イエスが仰いました。七節後半以降、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

主イエスから言われて、一人ひとり自分の罪に気付きます。「私善い人、お前悪い人」と人間を二分することは出来ない。みんな悪い。善いのは神様ただお一人です。自分もまた石を投げつけられる側でしかない、主イエスから石を投げつけられないようにと逃げるようにして立ち去って行きます。闇に捕らわれたのです。本当はここで主イエスの御前から立ち去ってはいけない。主イエスから赦しの言葉を聴けないからです。

その後一〇節から、イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」。女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない」。主イエスこそ、彼女に石を投げつけることの出来る罪のないお方なのにこう仰ったのは、赦しの宣言のためです。あなたの罪を私が十字架で代わりに負う。だから「私はあなたを罪に定めない」。彼女だけが宣言してもらいました。

彼女は現行犯で捕らえられました。裁かれるべきことはよく分かっています。でも、それ以上に、罪赦されたことを知りました。主イエスが光であることを知り、その光に包まれました。「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。行きなさいと言われても、それで主イエスから離れて行ったのではなく従う者となった。赦されたことを絶えず自覚しながら、その後、赦しに生きるようになって、暗闇ではなく光の中を歩む者となった…。それで八章一二節に続きます。「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。聖書は彼女のその後の歩みについて何も報告していません。読者の私たちに向かって、あなたならこの後、闇の中を歩くか、光の中を歩むか。光の中を赦されて赦す者となり、主イエスに従って生きますか、と問いかけています。

今日読みました旧約聖書イザヤ書、主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。NYの国連本部にも掲げてある言葉だそうです。それは裏を返せば、現実は剣や槍、軍隊を手放せないでいる訳です。イスラエルも軍馬に満たされ戦車には限りがなかった。結局敵国の軍馬と戦車にやられてしまう。それは今日に至るまで変わらない…。せめて抑止力が抑止力のままで留まってくれるようにと願わずにはおられません。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。

個人であれ国であれ、赦さず相手をやっつけることに力を注ぐ。この闇に留まる人間の姿、ヨハネ書簡に戻りますと、八節、自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。その上で自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清めてくださいます。ここでの神の真実さ正しさとは、キリストに対しては相手の不義を代わりに負わせてキリストを裁き、私たちに対しては罪の赦しを与えて下さる、そういう真実さ正しさです。私たちは罪を自覚し認め、不義を清められ、その光の中を歩むようにされる。それがキリストと出会うということです。

自分は正しい、相手が悪い、の思いをどう止まらせることが自分で出来るのか。些細なことならいざ知らず、絶対赦せないと思う時には、自分の力では無理です。赦せるためには私もあなたを罰しないと仰る主イエスの言葉とお姿を思い起こし、その光の中に包まれることです。包まれるのは教会の礼拝においてです。この礼拝での光の中に包まれて、罪を公に言い表し罪の赦しの感謝をささげるようになります。私たちは、主が光の内にあられるように、光の中を歩むべく招かれています。

今日は、教会の決算総会。昨年度の歩みを振り返り、主のみ前に報告することになります。教会も皆さん方もよくお仕え下さったと思います。それは、主の赦しを自覚し、皆さんが夫々に主の光の中を歩まれたからでしょう。

また、月曜日からの生活も、日曜日に福音を聴き、主イエスの赦しを知って歩まれたのですから、その赦しを無視して歩む歩みと同じ生活であるはずはない。週日の生活に於いて罪の赦しに生き、罪を赦すことが出来たはずです。一〇〇%でなくても、その中を歩んでこられた。至らない所があれば、赦して戴きながら、次の歩みに繋げていけば良いのです。

それから今日は、三国丘高校の社会科研究部の生徒の皆さんがお越しです。教会にインタビューに来られました。いくつかのテーマがあるのですが、そのうちの一つが「教会と地域の繋がりは何ですか」。その繋がりは教会の私たち自身です。日曜日に罪の赦しの福音を聴き、その光に包まれた私たちが、週日の生活において光の中に歩む。この姿がこの社会の中で明らかになるとき、教会と地域は繋がる。そう信じます。キリスト教徒のこの世における存在は、光の中にある存在です。とは言え、それは私たち自身が輝いているのではありません。神が光の中におられるように、私たちがその光の内に包まれ、光の中を歩みます。

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