「喜びが満ち溢れるように」

森田恭一郎牧師

(出エジプト三三・一八―二三、Ⅰヨハネの手紙  一・一―四)

今日から、ヨハネ書簡の御言葉を味わって参ります。説教題を「喜びが満ち溢れるように」としましたが、教会の交わりは教会の喜びが皆さんに満ち溢れるための交わりであることをお話ししたい。今日の聖書個所は、神様と人間がどのようにして関わりを持てるのか、明らかにしています。教会の交わりを持つことによって、神と共に歩むことが出来る、そこに喜びが満ち溢れます。

神様は本当にいらっしゃる。このことを人間に神様が、私はここにいるよとご自身を顕し、私はこういう神ですよと自己紹介して下さることによって分かるようにして下さった。それが復活のキリストが顕現されたことです。「本当に主は復活して、シモンに現れた」、「ほんまに、せやった、せやった」というあの感動が、神との出会いを表現しています。今日の聖書でも、動詞の、三種類の過去、現在、未来の五つの時制を使い分けながら、主イエスとの出会いを語っています。

①第一節の二行目「よく見て、手で触れたもの」、そして二節の二行目「この命は現れました」。この三つの動詞が、復活の主と出会った経験を表現しています。すなわち、イエスは、裏切った弟子たちの、そして罪深い人類の罪を贖い赦す神の御子であられる、そういう命の出会いの経験です。これを表現しているのが「よく見て、手で触れたもの」、「この命は現れました」なのです。

②そしてその経験から、十字架以前のイエス様を思い起こしています。それが、一節の「私たちが聞いたもの、目で見たもの」、二節の「私たちは見て」、三節の「私たちが見、聞いたこと」、この五つの動詞が十字架以前のイエスとの出会いを表現しています。この方は、なる程そうだったのか、クリスマスの時の初めからこの世に到来しておられたのだ、その時には気が付かなかっ たけれども、この方が神の御子であられたのだ。   ③そうやって十字架に至るまでの主イエスを思い起こすと、もう一つ気付く。実はこの方はクリスマスにこの世にお出でになる前からおられたのだ。一節、世の始まる前の初めから(ずうっと)あったのだな、二節、御父と共に(ずうっと)あったのだなと、この二つの動詞が、天地創造の前からおられた先在のキリストを表現しています。

④そのキリストを、今度は現在形です。二節、あなた方に今証しし、今伝えるのです。三節にも、あなた方にも今伝える、四節には、これらの事を今書くのは、と現在形の動詞の形で表現します。  ⑤そして、証しし、伝え、書くのは、これからあなた方が交わりを持つようになるためであり、四節、私たちの喜びが満ち溢れるようになるためなのだと将来に向けてのこととして語ります。事の始まりは、復活の主イエスとの出会いからです。

このキリストの事を私は、中高生には、名刺のようなものだと話します。天の神様が私たちに「私はこういう者です」と名刺を差し出して下さった。名刺と言っても紙切れの名刺ではなくイエス・キリストという生きた名刺。このキリストをよく見て下さい、その人格と言葉と業、それをよく見る、聞く、時には触れて、弟子たちは最初は、何か特別な人だなと位にしか分からなかったけれども、復活の主イエスに出会って初めて、神様がおられると確信することが出来、またどのような神様であられるかということも分かった。

復活の主イエスと出会う。その時弟子たちは、一つ目に、イエスが死人の中から甦って来られた驚きを経験する。でもそれで終わらなかった。二つ目に、その時にイエスを裏切った弟子たちは罪が赦される経験をした。しかも人間イエスに赦してもらったことに留まらず、弟子たちは、神様に赦して戴いたのだと分かった。あの十字架も、ただイエスが殺されて死んだのではなかった、自分たちの罪を代わりに負って贖って下さった、だから赦して戴いているのだと分かった。罪を贖い罪をお赦し下さるこの方は神の御子であられるのだと分かった。分かるというのは出来事です。頭で考えて分かったというのではない。出会いです。

そのキリストとの出会いを証しし、宣べ伝えている弟子たち。それが三節私たちとの交わり(直訳すると私たちと共なる交わり)=教会の交わりです。そして、こういう書簡や福音書は復活の主、御子イエス・キリストに出会った経験から記したものであって、その意味では報道記者が、何が起こっているか分からないままに速報している報道記事とは異なります。復活の主イエスと出会った視点から書いている書簡や福音書の言葉があって、現代に至るまで主イエスのことが伝わっている。

このことは、ユダヤ教の伝統から考えるとあり得ないことです。出エジプト記三三章一八節以下、「あなたは私の顔を見ることは出来ない。人は私を見て、なお生きていることは出来ないからである」。私たちは神の御顔を見ることが出来ない。私たちが太陽を直視し続けたら恐らく目がつぶれてしまうように、神様を直視することは出来ない。キリスト教はユダヤ教のこの想定を超えました。直接目で見ても死なない。そこに神様のご配慮があって目がつぶれないように、死んでしまわないように、主イエスは神であられることを人間の姿に隠して下さった。しかし実は御子であられた。

それを書き記すのが聖書ですが、聖書だけがあればいいかというと足りない。聖書を解き明かす教会の交わりが必要です。交わりについては三節、「私たちが見、また聞いたことを、あなた方にも伝えるのは、あなた方も私たちとの交わりを持つようになるためです」。ここにある交わりは、キリストを証しする人間の言葉を神の言葉として語り、そしてそれを神の言葉として聴く、そういう出来事が起こる礼拝の交わりです。牧師が一人の所で語っても交わりにならないし、皆さんがただ集まっているだけでも交わりにはなりません。神の言葉を語る者と聴く者の交わりです。

神と出会っていると、新約聖書は伝えています。この私たちとの交わりを三節は更に御父と御子イエス・キリストとの交わりと言い換えます。これは永遠の昔から出来事としてずうとあった、父と子と聖霊ご自身の内なる交わりです。私たちは何と、その神様の交わりの中に入れられるのですね。これも論理や思いを超えて起こる出来事です。

この証し人たちの交わりに、今の私たちも入れられて、キリストと、父なる神と出会う。そしてここには語られてはいませんが、これらの出来事が起こるのは聖霊の導きのお蔭です。この神様の交わりの中に入れられるのは、しかし、地上に来られた生きた名刺を見る、聞く、触れる事によってです。肉体を以て地上に来られたキリスト、そのキリストを証しする交わりという教会抜きに、直接、天の神様に私たちが出会うことは出来ない。

主にある交わりとよく言いますが、これは仲がいい交わりという事ではない。神の御子であられる主イエスと出会った証人の交わり、その証言を聞いて信じて受け入れている者たちの教会の交わりで、その本質はただ仲がいいという交わりではない。信仰の告白を分かち合う交わりです。

ホスピスで、それまでキリスト教に触れたことのなかった患者さんが、ホスピスでの礼拝などで福音に触れ、病床洗礼を受けることがあります。ホスピスに入院すればみんなが洗礼を受ける訳ではない。聖霊の導きです。聖書だけあっても駄目です。聖書の言葉が告げ知らされる出来事が不可欠です。チャプレンに象徴される教会の交わりの中で洗礼志願の思いが与えられます。

そこでの洗礼は何のためか。天国行きの切符を手に入れるためだろうか。亡くなった後は誰であっても神様にお委ねするしかない。お委ねする時には、天国に迎えられると信じて委ねる。洗礼を受けなくても神様が受け取って下さるのは同じだと信じます。であるのに洗礼を受けるのは、天国を確信しつつ、今この地上で神を賛美し神を喜んでこの命を生きるためです。

ここで味わう喜びは、この世で味わう喜びとは自ずと質が異なってきます。健康な時に美味しいご飯を頂いて味わう喜びとは、質が異なりますね。この世の喜びを否定する訳ではありませんが、亡くなる直前、美味しいもの食べたいとは思いませんから…。この世の喜びに固執しなくなるのではないでしょうか。そして、その時点でなお喜べる喜びとは、キリストがこの世に残して下さった喜びしかないでしょう。罪を犯してきた自分が、十字架によって罪贖われて、永遠の命へと招かれている。そのことを知って、今、感謝を捧げたい。この喜びを表すようにと洗礼を受ける。

先々週講演会を開きました。そこで願ったことも、みんなでこの世の喜びを喜ぶためではない。キリストが与えて下さるこの喜びを分かち合いたい。聖書は喜びが満ちあふれるようにと私たちを

招いています。これが起こるのが、教会の交わり。この交わり=私たちとの交わりの中にいつまでもいたい。そして教会の交わりでこそ与えられる喜びを分かち合いたい。この思いがあります。

教会でもこの世の楽しみを喜んでいい。一緒に旅行に出掛けたり、おいしいお食事を戴いたり…。でもそれが教会の交わりが持つ究極の喜びではない。キリストが残して下さった喜びです。そしてこれは、自分一人で聖書を読んで悟りを開けば分かるものではない。教会で御言葉の解き明かしを受ける中で知り、聖礼典に於いて分かるものです。

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