「まことに、アーメン」

森田恭一郎牧師

(イザヤ書六五・一六、ヨハネ黙示録三・一四―二二)

今日は主の祈りの最後に唱える言葉「アーメン」について思いを向けます。それで、アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方と記すヨハネ黙示録を選びました。キリストはアーメンである方。キリストは地上のご生涯、私たちに神の愛と救いを真実に身を以て証言して下さった。私たちはこの神に愛を動機にして造られました。キリストをアーメンである方と表現するのは新約聖書でここだけです。

祈りの終わりに唱えるアーメンの言葉は今さら言うまでもなく、然り、まことにそうですという同意や確認と、そうでありますようにという願いが込められています。先程の讃美歌六三番九節もアーメン、かくあれかしと歌いました。また主イエスがお言葉の初めに、はっきり言っておく(ヨハネ一・五一)、よくよく言っておく(口語訳)とか、確かに言っておく(ルカ九・二七)とか言われる場合も、アーメンという言葉で、これから語る御自分の言葉を確かだと確証しておられる訳です。

今先ほど歌いました讃美歌五四九番、人生を辿りながら四節では、私たちを照らす御光よ、心高く上げ神の御国を仰ぎたい、仰ぎたい。人生最後まで主を仰ぎ望んでいたいと思います。それから後で歌います二〇九番、朝夕の歌なので日常生活をイメージしての歌ですが、一節は目覚めよ心よ、この日の務めにと歌い出します。朝の風景であると共に、いつも目を覚ましていなさいと主イエスが言われたお言葉を思い起こします。四節も眠れる時にも、とこしえの朝に目覚むる時までと夜、就寝する時のことを歌っていますが、復活して御国に招かれることを思い浮かべます。人生、信仰を以て晩年まで過ごしたいと祈り願います。

ところで、先々週のイースターの説教の中で、「キリストは復活された」と牧師が呼びかけると「本当にキリストは復活された」と会衆が応答する挨拶がカナダやロシア正教会にあると紹介しましたが、この本当にというのも、単語はアーメンとは別の単語ですが、意味はアーメンです。

それで、私たちも挨拶してみようということで、私が更に二つ目に「本当に主は復活された」と呼びかけて、「ほんまに、そうやった、そうやった」と皆さんに応えて戴きました。その後、ある方からご指摘を戴きました。「そうやった」というのは違うと言うのです。何が違うのかと思いましたら、発音が違うとのこと。「そうやった」ではなく「せやった」と発音しないと大阪弁らしくないと仰るのです。「そ」と「せ」の中間母音のような私には難しい発音です…。

ここで何を言いたいのかと言いますと…、「そうやった」と発音するのでは、違和感を覚えて心から応答出来ないということを指摘して来られたのだと思います。アーメンと唱える時には、やはり心から応答出来るものでなければなりません。

言葉の意味から言ってもそうです。然り、まことにそうです、という意味ですから。

もし相手が嘘ついているなと思ったら、その言葉にも相手にも心からアーメンとは言えません。私たちが、信仰に於いて神様に向かってアーメンと応えることが出来るのは、神様が嘘をついてはいない、真実を語っておられると、確信出来るからです。誠実で真実な証人(三・一四)とあった通りです。併せて今日の聖書個所はこのことを明瞭に語っています。まずイザヤ書六五章「この地で祝福される人は、真実の神によって祝福され、この地で誓う人は真実の神によって誓う」。そしてヨハネ黙示録「アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方」。ヨハネ黙示録がこう語るのは、いつでも、そして当時も、偽物の神々ばかりだったからでしょう。ローマ帝国は皇帝崇拝を求めつつ、皇帝自身は真実を語る訳ではない。権力紛争に明け暮れるだけです。

ヨハネ黙示録は、今度は私たちに問いかける。あなたはアーメンの者なのか。一五節、「私はあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであって欲しい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている」。この熱いとか冷たいとかは何を言っているのであろうか。黙示録はそれを読者がこの言葉からイメージすることを求めています。言いたいことは、熱くも冷たくもない生ぬるい君たちでは吐き出したいということです。

でも敢えて、「熱い」について考えると、それはキリストに向かう熱さです。でも生ぬるくなっていて、キリストに向かっていない。だから一九節熱心に努めよ、悔い改めよとキリストに向かう熱さを語っています。

ならば「冷たい」とは何か? 一七節のあなたは、「私は金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」と言っているが…。ラオディキアは、町としては裕福で、金融業も盛んで銀行もあり、また目薬でも有名であったそうです。それで人々は生きていける、キリストをも必要とすることなく生きていける、といつしか勘違いしてしまう。だから信仰が生ぬるくなる。でも実は、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。それが分かれば、自分には何もない。それが敢えて言えば冷たさでしょうか。冷たくあれば、キリストを求めるようになります。

それで一八節、そこで、あなたに勧める。裕福になるように火で精錬された金を私から買うがよい。裸の恥をさらさないように身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために目に塗る薬を買うがよい。金、キリストの救いとキリストに対する信仰。衣、キリストを着ます。目薬、目を覚ましてキリストをしっかりと見ます。 

壮年会・婦人会で、歳を重ねて教会に来られなくなり、このままでは礼拝もささげられなくなってしまうと自分の冷たさを思い、先週、俣木聖子さんをお招きしこれからの介護について講演を伺いました。それは裏を返せば、最後までキリストにアーメンと唱えたい。それも信仰の友と共に続けられるようにしたいと願ったからです。思いは熱くなってきている。良かったのではないですか。

二〇節以下の言葉は有名です。見よ、私は戸口に立って、叩いている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう。通常、私たちはこの個所を伝道集会などで、未信者の方たちへの勧めの言葉として理解し用いることが多い。でも…、この個所は、ラオディキアにある教会の天使に向けられた言葉です。更には二章からの七つの諸教会に宛てられた手紙全体の括りとして記した箇所でもあります。つまり天使を通して信仰者に対して語っています。

生ぬるいのは私たち、そしてキリストがせっかく戸を叩いて下さっておられるのに、信仰者の私たちが満ち足りている、何一つ必要無いと思って、実はキリスト無しに生きて、キリストが戸を叩くノックの音を聞き流してしまう。キリストからご覧になると、生ぬるくて、私たちの信仰に対してアーメンとは言えない、とがっかりしておられる。

でもキリストは、自分で立派になれと私たちに言われているのではない。もう一度一八節、言葉を補って読みます。「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金を私から買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を私から買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を私から買うがよい」。

私からの言葉がどの文節にもがかかっていて、私から買うがよいとなります。キリストからということが強調されている。キリストからのみ買うという熱さ、そして、キリストに求めるしかないそういう自分たちでしかないという冷たさです。同じことの裏表で、熱いのも冷たいのもどちらも同じです。どちらも、中心はキリストです。

主イエスが教えて下さった主の祈り。以来、教会が受け継いできた主の祈り。「天にまします我らの父よ」と呼びかけ「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」とそこまで祈り、終わりに、全てが然り、まことである、かくあれかしと心からアーメンと唱えることが出来る。聖餐に与る時、私たちは、惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者である自分です。そういう私たちが自分では持っていない、キリストの恵みを戴きます。聖餐に与る時、改めて信仰者である私たちの扉をキリストが叩いて下さる。この私たちのために立ち止まり、戸口に立って叩いてノックして下さいます。私たちは主のノックの音を聴き取ります。それにアーメンと応えます。

聖餐に信仰を以て与る時、キリストから、火で精錬された金を戴き、身に着ける白い衣を戴き、目に塗る薬を戴く。主の祈りを心からアーメンと唱える。その時私たちもアーメンとされています。

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