「忘れなくても、赦罪の祈りへ」

森田恭一郎牧師

(イザヤ六・五―八、ルカ五・八)

今日は主の祈りの第五番目の祈願「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え」です。山上の説教の言葉は「私たちの負い目を赦して下さい。私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。負い目は、負債、債務という響きがあり、ただ心の中の問題を超えて、相手に対して負債を返済あるいは謝らなければならない、そういう対社会関係、対人関係を含む言葉です。

まず心に留めるべきことを申します。主イエスは権威をお持ちの神の御子です。その権威はしかし、それを振り回して偉ぶるための権威ではなく、罪の赦しの権威です。債務者の所に来て、金を返せと怒鳴り込む債権者ではない、罪を赦す権威を持つ救い主が来て下さいました。

中風の人が四人の人に担架に乗せてもらってきた記事があります。その中風の者に主イエスは「人よ、あなたの罪は赦された」(ルカ五・二〇)と宣言なさいました。そして「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われて中風の者を癒やされました。この罪を赦す権威をお持ちの主イエスの御前に私たちは招かれています。それで私たちは「我らの罪をも赦し給え」と祈ることが出来ます。

ここで負債とか負い目という言葉から生じやすい誤解をしないようにしておきたいと思います。それは、負債なら個々の負債に対して返済すれば済む、悪いことをした個々に応じて善行を積むことによって相殺されるという誤解です。本当は、個々の行為というより自分の存在が負い目を負っています。それに対して自分で何か返済が出来るという事ではなく、赦してもらうしかない。対人関係で相手を傷つけてしまった時には、赦してもらうしかない時があります。

放蕩息子の譬え話、父から財産を受け取って放蕩に身を持ち崩した弟は言いました「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にして下さい」。雇人になって無駄使いしてしまった分を返済しようとしたのでしょうか、でもそれは父の心を更に悲しませるだけの事です。父は「雇人にして下さい」とは言わせないで、息子として迎え入れました。何故ですか。罪を赦し息子として存在を受け入れたからです。この譬え話を主イエスご自身が語られたことが意義深い。十字架で罪を贖い赦す決意の下でこそ意義ある譬えです。

この譬え話の直前にあるもう一つの譬え話は、無くした銀貨の譬えです。銀貨は自分からは何も出来ません。ただ見い出されるしかない。完全に受け身です。私たちは赦して戴くしかありません。

今日選びました旧約聖書は、イザヤの召命記事の所です。神殿で聖なる神様の臨在にまみえた時、私は言った。「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、私の目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(五節)。彼は自分の汚れを自覚せざるを得ませんでした。でもその時にするとセラフィムのひとりが、私の所に飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼は私の口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」。罪を赦して戴く経験をしました。そして預言者として立てられました。

新約聖書ルカ五章、ペトロの見通しに反して沢山の魚が捕れた時「主よ、私から離れて下さい。私は罪深い者です」(八節)。罪深い存在としての自覚です。主イエスを神の御子とはまだ分からなくても、何かキリストの清さ、聖性に触れました。裁かれてしまう自分は罪の存在であることが分かった。離れて下さい、私の罪に目を留めないで下さいと願う。その時主イエスは、ペトロから離れず、ペトロを追い払いもしない。その罪にしっかりと目をお留になっておられます。けれども、債務を返せと債権者としてではなく、逆に、その罪を私が代わりに負おう、と言わば債務者になられて、その罪をご自身の身に担うことを十字架に見通しながら、ペトロの罪をお赦しになった。そして言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕る漁師になる」。ペトロを弟子になさったのでした。

キリスト教徒にされるのは、息子として迎えられるあの弟、自らは何も出来ないまま見出されたあの銀貨、神様の清さ聖性に触れて、罪を自覚しつつ「私は罪深い者です。どうぞ我らの罪をお赦し下さい」と祈り、罪を自覚すればする程、相応しくないであろうのに罪赦されて用いられるあのイザヤやペトロと同じ自覚を持つことです。

主の祈りは「我らの罪を赦したまえ」と祈ります。私たちは、我らの罪を赦し給えと唱えながら、実際には私の罪を赦し給えと思って祈っているのでは? イザヤは聖なる神様の臨在に触れた時にこう言いました。「災いだ。私は滅ぼされる。私は汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」と。

罪人としての民、他の人をも覚えながら「我らの」と祈る。つまり執成しを含む祈りとなる。これを祈る時に生じていることは、あの人は罪人だと責め立てるのではなく、共に負いながら執成す人となっている。だから、イザヤは罪赦されてから、民の中に遣わされて行きます。それは責めるためではない。赦されているのだと悔い改めて共に神様に心を向けるためです。

日本では何か、相手の罪への追及が厳しくなってきているような感じがします。再発防止ということで、交通事故の危険運転致死傷罪、少年への刑法適用等々。昔のロッキード事件以来、政治家への追及が当たり前になりました。野党が与党の敵失を責める事だけが野党の仕事であるかのような国会議論になっていないか。もちろん、不祥事や不正をどうでもいいと言っているのではありません。ただ、あの人の罪は自分も犯し得ることを忘れてはいけないように思います。「我らの罪を赦し給え」と祈る時、自分だけでなく、この人の罪、その人の罪、そして自分が赦せないでいるあの人の罪をも思い起こしながら祈る。

主の祈りで「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」と祈ります。幼稚園では園児たちは大きな声で祈ります。でも大人の私たちは、何がしか声が小さ目になっているかも…。意識的にあの人のことを思い起こせば、却って私たちは「とんでもない、あんな人の罪を赦せるか」と思ってしまうのかもしれません。でも主の祈りを祈りつつ思い起こして、あの人の罪を赦し給えと祈ってみて、結果的に赦せなくても、まず赦そうとしてみる。そうやって、赦しの場の中であの人のことを考え始める。するとキリストが赦して下さったことの大きさに改めて気付きます。そうなれば既に、赦すことへ歩み始めているのではないでしょうか。

マタイ福音書一八章一五節以下赦しが主題になっています(途中略)。それで譬えをお話になりました(二三節以下)。王様から一万タラントン借りて免除してもらった人が、その人に百デナリオン借りている人を赦さなかった話です。この時の王様の言葉が「私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。彼は何故百デナリオン借りている人の負債を免除してやれなかったのか。キーワードは「私がお前を憐れんでやったように」です。王様が一万タラントン分も憐れんで下さったことを思い起こさなかったからです。些細なことならともかく、いやここでは一万タラントンに比べれば些細な百デナリオン分でも、相手を赦せない。私たちは相手の罪を忘れることは出来ないものです。相手と立場が入れ替わったら私の事を相手も赦せないかもしれない。

だから、だから、キリストに祈るのです。キリストの憐れみに思い至すのです。キリストに執成してもらうしかない。赦して戴くしかない。もし赦せない者同士が赦し得るとしたら、それは、日頃から教会でキリストによる赦しを聴いているからです。自分が赦せなくてもキリストが赦して下さっておられる…。この黙想体験の積み重ねの中で、キリストの赦しを身に着け、ここから自分と相手の和解と平和が始まる。このようにキリスト教徒が他者に関わって、普通だったら赦せない感情を持つ所を、赦す私たちの姿を通して和解と平和を示していくことに、キリスト教徒の社会的意義がありますね。

それは相手の罪を水に流して忘れる事ではありません。そのような解消では解決しません。キリストの赦しの下で安心して謝る謝罪をし、キリストの赦しの下で赦す赦罪の道が開けて解決していく。日本政府に対し近隣諸国が戦前のことを巡り、赦罪を求めて尚くすぶり続ける。未解決のままです。

「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く」、これは赦されるための条件でしょうか? 私たちが赦すことが先にあって、私たちの罪が赦されるのでしょうか? 十字架は後からついて来るのでしょうか? そうではありません。私たちが独力で相手の罪を赦すことが出来るなら、そもそも十字架は必要ないことになります。そして、そのように十字架は必要ないと考え十字架を無視したら、結局は罪を赦せず赦そうとしないまま、相手の罪を追及し続ける人間と社会になるでしょう。

十字架は私たちよりも先にあります。その十字架のキリストを見上げてこそ、赦しの場の中に私たちは立って、赦しの可能性が開けてくるのです。キリストこそは、罪の赦しの権威をお持ちです。

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