「神様ならば、何なさる?」

森田恭一郎牧師

(申命記六・四―九、ルカ二二・三九―四六)

主イエスは、いつもの場所で、いつも祈っておられました。イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来るととある通りです。色々な祈りを祈られたことです。そしてこの時、オリーブ山、ゲツセマネでの祈りは特に、誘惑に陥らないようにという祈りでした。そしてこの日は弟子たちにも勧めます。イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われたのでした。

「誘惑」の言葉の意味分かりますか。小学生以上だったら、勉強しないといけないのについテレビを見てしまった、というのは誘惑に負けたということです。園児なら、キーホルダーやシールを持ってきてはいけないのに、三つ、四つと持ってきて友だちに見せびらかせてしまう。これ誘惑です。大人の人だって誘惑に陥ります。これを食べたら太っちゃうって分かっているのに、美味しいものがあるとつい食べてしまう。これも誘惑。

誘惑は実に色々ある訳ですが、今日のこの個所では、自分の願い通りにしたり、私の願い通りにさせたりすること、自分の願いに流されることです。主イエスは、祈りながらこの誘惑と戦っておられます。「しかし、私の願いではなく、御心のままに行って下さい」。誘惑と戦う主の祈りです。

この個所で誘惑について考えると、最後の所にも「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と主イエスが言われたので、祈るべき時に眠ってしまうことが誘惑なのだ、心は燃えても肉体は弱い(マルコ一四・三八)と思いがちです。でもそうなのでしょうか。

弟子たちだって頑張ったのです。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちの所に戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。弟子たちが眠ってしまったのは、悲しみの果てに眠り込んだ。主イエスの祈りのお姿を後ろの方から見ながら、主イエスの悲しみが伝わってくる。主イエスの後姿から伝わってくる。弟子たちは主イエスの悲しみを共感するにも、その悲しみの深さに耐えられなくなりました。それで耐えられないで悲しみの果てに眠り込んだ。

十字架におかかりになる直前の、十字架に直面しての主イエスの祈り、弟子たちは復活前のご復活の栄光を知らない時点で、この主イエスの祈りを共にすることは出来ない、いやむしろ、共にしてはいけない、覗き込んではいけないのです。主イエスはこの時、このことが分かっていました。そして自分は、石を投げて届く程の所に離れ、祈られたのです。それは共に祈らないためです。弟子たちにとって、この距離と眠りが必要なのです。

主イエスの祈りは「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけて下さい」という祈り。十字架上で何が起こるか。「わが神わが神、何故私をお見捨てになったのですか」。罪の裁きとしての死を担わねばならない。父なる神に見捨てられる。これは人間には耐えられないことです。だから人として主イエスが「この杯を私から取りのけて下さい」と願われたのは当然です。人間は神に見捨てられることを担い得るようには造られてはいないからです。神様は人間をそのようにはお造りになりませんでした。ですから、この祈りと十字架の悲しみの出来事は、主イエスが神の御子だから担い得ることです。「御心が成りますように」というのは信仰者として願うべきことですが、ここでの御心は、主イエスが人類の罪を代わりに負って罪の裁きとして死なれることですから、実に大変なことです。

そしてこの祈りは、天使が主イエスを力づけてくれなければならない程の大変な祈りです。すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。ここで誤解してはいけないのは、天使が力づけて、そのお蔭で、主イエスは祈る必要がなくなったのではないという事です。そうではなくて、イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。祈り続けるためには天使に支えてもらうことが必要だった訳です。

申命記に律法の一番大事なこととして、あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさいとあります。主イエスは、父なる神を愛することを一番大切なこととして身に付けて来られた。だから、この時も自分の願いよりも父なる神様の御心を第一になさっておられます。

申命記は続けて、今日私がこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っている時も道を歩くときも、寝ている時も起きているときも、これを語り聞かせなさいと御言葉から離れないようにと命じています。そのために、更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさいと方法まで教えてくれています。

今日、私は自分の手に腕輪、ブレスレットをしてきました。ここにある文字が記してあります。いつも忘れないようにと。何と書いてあるかというと、W・W・J・Dです。幼稚園でもアルファベットの歌知っていますね、

♪ABCDEFG…VW and XYZ♪ 

(これを歌いながら、紙に書いたアルファベットの字を見せて)、このW。このW。このJ。このD。WはWhat、次のWはWould、JはJesus、 DはDo。イエス様だったら何を為さるだろうか、イエス様だったらどうするだろうねぇ? という意味です。What Would Jesus Do ? 中学生なら分かるかな。What Will Jesus Do ? これだと、イエス様はどうなさいますか、と意志や予定を問いかける言い方になりますが、What Would Jesus Do ? だと、イエス様だったらどうするかなぁ? と自分の中で考える言い方になります。

だからこのブレスレットをいつも腕に付けておいて、何か問題にぶつかったら、W・W・J・D What Would Jesus Do ? イエス様だったらどうするかなぁ? と一呼吸置いて考える。こうやってイエス様のことを忘れない。御心を考える。

オリーブ山の祈りの時に、主イエスは父なる神様ならどうなさるかなぁ?と考えた。What Would My Father Do ? それが「私の願いではなく、御心のままに行って下さい」という祈りの内容です。

私たちは主イエスに向かって、W・W・J・D、 What Would Jesus Do ? イエス様だったらどうするかなぁ? です。こう祈って、一歩立ち止まって考えて、誘惑に陥らないようにする。私の願いではなく、御心が成りますように、と主イエスの御心を問いかけます。

今度の分級で、腕輪を作ってみましょう。腕輪でなくてもいい、首輪、ネックレスでもいい、W・W・J・D、 What Would Jesus Do、御心を忘れないように、作ってみましょう。

主イエスは、この祈りを経て、十字架に向かわれました。私たちは、この十字架があるお蔭で、罪の裁きとしての死を恐れることなく、安心して御心が成りますようにと祈ることが出来ます。神様の御心は、十字架を根拠にした、私たちの救いだからです。それで、主イエスは二度目に「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と祈るようにと仰いました。私たちが誘惑に負けて十字架の贖いの出来事とその御心から離れないように、と祈ることへと私たちをお招き下さっています。

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