「人はパンだけで生きるものではない」

森田恭一郎牧師

(箴言三〇・七―九、マタイ四・一―四)

今日は主の祈りの四つ目の祈。「我らの日用の糧を今日も与え給え」の祈りを味わいます。この祈りは何よりも、食べる食物のことを念頭に置いての祈りであることは否定できません。

「私の」ではなく「我らの」日用の糧。その我らとは、一番広く世界中の人たちまでのことを思いますと、日用の糧を必要としている人々は沢山いることに気づきます。日本のように未だ十分に食べられるのに捨てられる食物が沢山あるような社会では、この祈りは切実感がありませんが、日本も、食料自給率の低さを考えると紙一重で切実な問題です。輸入が止まったら途端に食料不足。この祈りは、今日なお有効性を失っていません。

パン、今日生きて行くために必要なもの、よく衣食住と言いますが、身体的生命を維持していくために必要な全てのものをパンという用語は含んでいると考えて良い。主イエスはこれらのことを祈って良いのだと言われた訳です。主イエスご自身も、荒野の誘惑の場面で空腹を覚えられた。食糧難を経験した方から聞いたのですが、何でも食べ物に見えてくるとか…。荒野の誘惑では文学表現としてサタンが登場しますが、主イエスは石がパンに見えてくる程の経験をなさったのではないでしょうか。また飼い主のいない羊のような人々の有様を見て深く憐れまれ五千人の給食の奇跡を為さいました。飢えをよく知っておられます。

その上で、この祈りの持つ広がりを考えたいと思います。QOL、Quality of Life という言葉を耳にされたことがあると思います。医療福祉の世界ではよく聞く言葉です。Quality 質です。何の質かというと Life の質。このLifeをどう訳すかによって、質の中身が異なってきます。生命の質、生活の質、人生の質と色々と訳せます。

まず生命の質。何があれば生命の質が高いと言えるか。一般的常識で考えるなら、健康です。

次に生活の質。何があれば生活の質が高いと言えるか。日用の糧、衣食住、それを支える経済的財産。それらがあると生活の質はより高い。日本政府が戦後一番に重きを置いて立てた政策の目的は、生活の質の向上、経済成長です。戦争直後は文字通り食糧難の不足を補うための生活の向上でした。戦後七十年経っても生活の質の一層の向上を求め続けている。不足を補うより必要としている以上に一層豊かさを求めています。そして貧富の格差、富の偏在をもたらしています。

このことを思うと次の聖句を心に留めておきたい。貧しくもせず、金持ちにもせず、私のために定められたパンで、私を養って下さい(箴言三〇・八)。また貧しく暮らす術も、豊かに暮らす術も知っています(フィリピ四・一二)。主の恵みに於いて感謝し、足るを知っているということです。

そして人生の質。それは生き甲斐とか使命感の問題です。何故学校に行くのか、大学にまで行くのか、それは自分の人生の質を高めたいからです。

更に Lifeの四番目の訳、それは関わりです。QOLには人との関わりの質の部分があります。健康で、衣食住に不足が無く、やりたいことをしていても、それが誰のためにも役に立たないものであったり、それを共に担う仲間がいないとなれば空しさ、そして孤独が襲ってきます。

東日本大震災から八年。復旧を経て復興事業、それは九割がた為し終えたとのことです。食料が配給されていた避難所→仮設住宅→復興住宅と衣食住は良くなった。でも報道によれば、却って今の方が孤独死、自ら命を絶つ件数は増えている。復興住宅が出来上がっても、共同体の人間関係がむしろ希薄になって孤独になる。共同体、コミュニティーの形成が課題になっています。社会における関わりの質の問題です。

昔、村落共同体があった。ただ共同体意識が強すぎて、何事もみんなに合わせなければならない。その窮屈さがあり、個人という事が言われるようになった。戦後、国家の全体主義に対する反省もあって個人の自由、人権の大切さが認識された。ただ、個人主義が利己主義になり自分のためにだけ生きているだけで、絆が途切れ個人がバラバラになった面がある。改めて、一人一人が大切にされるコミュニティー造りが課題となった。震災は改めてその大切さを浮き彫りにし、人との関わりの質の向上の必要性が認識されるようになった。

しかし多くの場合、日本社会が必要と認識していることは、そこで留まっているようです。

QOL、もう一つ、関わりなのですが神様との関わりの質が必要です。地上の人生はいずれ終わります。その時に意識されてくることは、死んだ後、この自分を受け止めて下さる方がおられるのかということです。改めて神様を考える。考えることが出来れば幸いです。元気に生活している内から、QOLの五番目、神様との関わりを考える。そして、神との関わりを提示し、その関わりを支える信仰共同体が大事だと気づいて、元気な内から信仰を養っていく。もちろん死後だけでなく、生きている今も、神様との関わりの内にあることの大切さを教会の私たちは知っています。

日用の糧を与え給えの祈りを学びます時に必ず読まれる聖書の内の一つは、出エジプト記一五章から一七章にかけての荒野の旅における水やマナやウズラを神様が備えて下さった記事です。飲み水も食べるものもない。民が文句を言いモーセが助けを求めると神様は糧を一日毎に与えて下さる。糧を備えてもらって旅に出発してまた食料がなくなると、民はまた呟く。この繰り返しの中で、神は何をお示しになろうとされたのか。イスラエルの民が求めたことは空腹を満たすことだったかもしれない。だからエジプトにいた時の方が肉鍋があって良かったという話になる。健康と衣食住が保障されている共同体で十分ということだった。でも神様がお望みになったことはそうではない。出エジプト記一六章六節「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、朝に主の栄光を見る」。マナが与えられウズラが備えられる。その度毎に、主によって導かれてきたことを思い起こし、神様の事を知るそういう共同体、神様の栄光をたたえるそういう共同体を主は求めておられる。これを民は知るべきです。それで主イエスも荒野の誘惑の中で人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きると仰った。私たちは日頃、人の口から出る言葉によって支えられる。神の口から出る言葉によってという時、主イエスが言われた「私が命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」も思い起こすべきです。神様の愛、神様によるお支えによって私たちは生かされていることを主イエスは示しておられます。

もう一つ、釈義的には少し外れますが、教会総会を前に一言加えておきたいと思います。我らの日用の糧の代わりに、我らの日用の幻を今日も与え給えと読み替えてみましょう。それは箴言二九章一八節の言葉です。幻が無ければ民は堕落する。覚えておくとよい聖句です。食べるものが無ければ死んでしまいます。ここでは幻が無ければ民は堕落すると言うのです。他の聖書の訳では、幻が無ければ民は好き勝手に振る舞う。あるいは、幻が無ければ民は散りぢりになるとも訳しています。大事なことは幻に向けて一つになることです。そこで共同体を形成することが出来る。その共同体は、神様が私たちを救って下さったことをほめたたえる共同体、栄光をたたえる共同体です。

総会資料をご覧下さると、教会の将来展望を記しました。新年度にやりなさいと神様が仰っておられるであろうことを記しました。また中長期に向けて第一歩になるようなことを記しました。また伝道一三〇周年の時にこれが出来たら良いのではと思うことを書きました。その幻を掲げ、一緒に目指そう、となった時に私たちは散り散りにならない。またきっと明るい教会、希望に向かっている教会になると思います。目の前に課題は出てくるでしょう。でもそれなら幻はない方が良いのかというと、多分じり貧になっていくだけで、明るい展望が見えてこない。幻、それは主のご計画があるということです。それを見出すためには、新しいご計画と導きを信じて「それは何ですか、あなたの幻を示して下さい」と祈りが必要です。自分の計画ではなく主のご計画ですから、これは信じるべきことです。信じることなら、それは限界がありません。人間側の持つ何かしらの根拠を基に考える計画なら限界があります。

これはまた、ただ前に向かって進めというのとも異なります。前に進めとお尻を叩かれるだけなら何か義務的です。その点、幻や夢には、ワクワク感がありますね。課題があっても幻があるから幻に向かって不思議なワクワク感が出てくる。神様が与えて下さる希望であり幻です。そこに思いを重ね合わせて一緒にやっていこう。これを総会で確認したい。そして信仰共同体は、個々人の幻であっても神様が与えて下さる幻ならば「応援するよ、祈っているよ」と励まし合うことが出来る。それも素晴らしいQOLであると思えるのです。

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