「御子を見つめて何思う」

森田恭一郎牧師

(イザヤ五・一―二、ルカ二〇・九―一九)

教会の礼拝に、今日もよく来て下さいました。嬉しく思います。礼拝では聖書を読み、聖書のお話をし、賛美歌を歌います。この分厚い聖書に書いてあることは何かというと、神様と人間の関係を書いています。

関係って分かりますか。お父さんやお母さんが、君たち一人ひとりを愛している、可愛いと思っている。大切にしている。ギュッと抱きしめてくれる。一緒に喜んでいる。それに対して君たちも、良かった、嬉しい、有難うと思う。関係って、一人では出来ない。お父さんお母さんが(手振りで右側に)いて、そして君たちが(左側に)いて、その間に起こる心の思いや出来事の(水平の)関わりが関係です。

聖書はまず、神様と人間の関係を語っていて、神様が(上にいて)人間を愛し喜び、人間は(下にいて)有難うと神様の事を嬉しく思う、そういう(垂直の)関係です。お互い喜び合うことを神様は喜び望んでいらっしゃると語っています。

ところが、それがなかなか良い関係にならない。そんなことがあってはならないですよ。今日は、「そんなことがあってはなりません」、この言葉を中心にお話しします。君たちだって、お父さんやお母さんが、あなたのことを「大好き」ってキスをチュッとしてくれるならいいのだけれど、キスでなく傷を負わせて暴力ふるって、家の外に放り出したりしたら嫌ですよね。有難うと嬉しい気持ちになれないよね。悲しくなってしまいますよね。そんなことがあってはならないですね。

それで今日の聖書に「そんなことがあってはなりません」(ルカ二〇・一六)とある訳です。聖書のお話ですから、神様と人間の関係が悪くなるなんて、そんなことがあってはなりませんということです。神様と人間の関係は良くなって欲しい、良くしていこう、それが主イエスの願いです。

ルカによる福音書を読んでいきましょう。九節から。イエスは民衆にこの譬えを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちの所へ送った」。主人はずっと楽しみにしていた収穫を農夫たちと一緒に喜びたかったんです。君たち頑張ったね。一緒に喜ぼうねって。この主人の気持ち、いいですよね。

ところが、農夫たちは一緒に喜ぼうとはしない。「農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」。袋叩き、みんなでよってたかって叩くことです。農夫たちが主人の僕に向かって、そんなことあってなりませんね。

主人はでも、何かの勘違いではと、やっぱり一緒に喜びたくて「そこでまた、他の僕を送った」。「が」、「農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した」。農夫たちが主人の僕に向かって、そんなことあってはなりませんね。

主人は「更に三人目の僕を送った」。どうしても一緒に喜びたかったから。「が」、「これにも傷を負わせて放り出した」。農夫たちが主人の僕に向かって、そんなことあってはなりません。

「そこで」、ぶどう園の主人はどうしたかというと、「ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。私の愛する息子を送ってみよう。この子なら多分、敬ってくれるだろう』」。

少し話がそれますが、この「敬う」は面白い言葉で、「恥をかかせる」とも訳す言葉です。「敬う」と「恥をかかせる」とでは正反対の意味ですが、それは、こちらが恥じ入って相手を敬うことになるから。反対にこちらが恥じ入ることがないと相手に恥をかかせることになります。これも関係です。

主人は、農夫たちが「こんな私たちにこんなに立派なブドウ園を貸して下さってどうもどうも」と恥じ入って、主人を敬ってくれると思った。それで愛する息子を送りました。でも、どうなったかというと…、一四節、農夫たちは息子を見て、敬うべきか、恥をかかせるべきか、農夫たちはじっと見て、それで互いに論じ合った。「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」。

そう勝手に思い込んで、息子をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった。何と息子を放り出して捨ててしまった。殺してしまった! 農夫たちがご主人様の息子に向かって、そんなこと絶対あってはなりません ! ねっ!

主人は今まで、一緒に喜びたくて、僕を送ったのでした。それなのに、一人目は袋叩きにして追い返し、二人目は袋叩きにして侮辱して追い返し、三人目は傷を負わせて放り出してしまいました。それで、農夫たちが自分たちのしたことを恥じて、今度は主人の愛する息子を敬ってくれるだろうと思って送った。なのに、それどころか農夫たちは、息子をぶどう園の外に放り出して、殺してしまった。農夫たちが、ご主人様の愛する息子に対して、まるでゴミみたいに捨てちゃった。

さすがに今度は「ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか」。皆さんが主人だったらどうしますか? 世の中の社会の人たちだったらこう考える。「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない」。

彼らは譬え話全体を聞いて、「そんなこと」…。「そんなこと」って、どんなこと? 僕たちを袋叩きにして傷を負わせたり、主人の愛する息子をとうとう殺してしまったりしたことですね。それでこの譬え話を聞いた人たちは「そんなことがあってはなりません」と言った訳です。

でも~、あってはならない、そんなことが~、あり得~る、んです。それで、イエスは彼らを見つめて…詩編を引用して言われました。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった』」。

日本では木、木材で家を建てて行きます。向こうは石を積み上げて家を建てる。それで大工さんが、ある石を見て「これは要らない」と投げ捨てることがある。捨てられた石がある。でもそれが、家の土台となるような大事な隅の親石となった。

今日の午後、お餅つきをします。もち米にしてみたら、何でそんなにペッタンペッタンと何度も叩かれるというか、搗(つ)かれなきゃいけないのと思うほどです。でもそうやってお餅つきをして、柔らかな美味しいお餅が出来上がります。

捨てられた石が隅の親石になる、聞いていた民衆は何のことか分からなかったでしょう。でも、この話に横で聞き耳を立てていた律法学者たちや祭司長たちは、主イエスが自分たちに当てつけてこの譬えを話されたと気づいた。旧約の預言者たちを袋叩きにして放り出し、主イエスを最後、十字架に追いやって殺そうとしている自分たちの事を言っているのだと、律法学者たちは分かった。

せっかく神様が「一緒に喜ぼうね」と愛する御子イエス・キリストを送って下さったのに、悪いことを考え殺してしまう、そういう人間の悪い想い、神様との関係を有難く受け止めない人間の罪。それを主イエスはご自分が捨てられた石になり打ち砕こうとしている。それが一八節「その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」。大人にとってもこの言葉は不思議な言葉です。人間の罪が石の上に落ちて粉々に打ち砕かれ、石が人間の罪の上に落ちて押し潰してくれる。主イエスが十字架のご自分の上に人間の罪を背負い打ち砕いて下さる訳です。

九節で、主人はブドウ園を丁寧に作って、これを農夫たちに「貸して」あげました。一緒に喜べる収穫の日を楽しみにして…。

一六節を見ると、今度はブドウ園を他の人たちに「与えるに違いない」。借りたら返さなければなりませんが、主イエスは、ご自身の愛を、与えて下さる。そして愛の隅の親石になって下さる。君たちが神様の前から捨てられて殺されてしまうことはない。何と神様が私たち罪人に対して、そんなことがあってはならない、と。

この譬え話は、主イエスが話して下さった最後の譬え話です。十字架の直前に話して下さった譬え話です。私の愛を与えよう、そう堅い決意をして下さった訳です。有難いことです。

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