「主の御名が礼拝されよ」

森田恭一郎牧師

(エゼキエル三六・二二―二四、ヨハネ黙示録二・一二―一七)

今日は、主の祈りの呼びかけに続いて、初めの祈願「御名を崇めさせ給え」を巡って、御言葉を味わいます。

まず御名。何故、「神を崇めさせ給え」と祈らないのだろう。次に、崇めさせ給え。それは、御名が崇められるように。直訳すれば、聖とされるようにという意味です。言い換えると、礼拝されますように。そして、この祈りを祈願の最初に祈ります。他の祈り、例えば「日用の糧を与え給え」ではなく、ということです。日頃祈る時、最初に何を祈るべきかと、主の祈りは問いかけます。

御名を崇める。名は、名前がないと呼ぶのが不便だからという便宜的なものではありません。その人の名前を聞けば、その人の顔、姿、声、その人との関わりの歴史、親しければその人の人生、ものの考え方等々まで思い起こす。その人自身を表すのが名前です。

神の御名も、神ご自身を表すものです。その御名を汚してはいけません。そして「神を崇めさせ給え」では、漠然としてどのような神だか分からない。キリスト教徒にとって御名とは、イエス・キリストの御名、あるいはキリストの父なる神の御名です。私たちのために十字架にかかり甦られた救い主キリストの御名です。

また旧約の時代は、イスラエルの民を導く神です。出エジプト記には「私はある」という者だと神様の自己紹介がありますが、その御名を思い起こすのは、イスラエルの民を通してです。アブラハムにご自身を現わされた神、出エジプトの出来事を通して救って下さったあのイスラエルの神、その御名はイスラエルの民が救われ導かれてきたことを通して明らかにされます。

エゼキエル書の箇所も、彼らはその行く先の国々に行って、わが聖なる名を汚した(エゼキエル三六・二〇)とあって、神の御名を汚すことが問題になります。

この個所での背景を説明しますと、イスラエルの国が、バビロニア帝国によって滅ぼされて、イスラエルの主な人たちがバビロニアに連れて行かれた。そうしたらバビロニアの人たちが彼らを見て言いました。「これは主の民だ、彼らは自分の土地から追われて来たのだ」と。「これが主の民なんだって。国が破れて自分の土地から追われて来たんだってさ。あのイスラエルの神様なんて、弱っちいね」と民の姿を見てイスラエルの神を馬鹿にした。

イスラエルの国がバビロニアに敗れたのは、イスラエルの神様がバビロニアの神々より弱かったからではありません。そうではなくご自身の名を崇めるに値する真の御名とするために、神の御名をちゃんと崇めないでいたイスラエルの民を裁き給うた。だから、むしろ生きて働かれる強い神です。でもそれを周囲の人たちは誤解した。それで二三節以下、私は、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。私が彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされる時、諸国民は、私が主であることを知るようになる、と主なる神は言われる。

そこで二四節、 私はお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。捕囚の故に散らされていた人たちを神は再び約束の地に連れ戻す。その時、周囲の人々は、民が救い出されたのを見て、イスラエルの神は弱くはない、イスラエルの神が主であることを知らされます。神様はそうやって御名を回復なさいます。神様がご自分の御名が崇められることを一番大事にしておられることがよく分かります。

ヨハネ黙示録、しかし、あなたは私の名をしっかり守って(二・一三)とありますので選びました。ペルガモンにある教会の状況では、教会の戦いが二つありました。一つは対外的なことの中で信仰を守り抜く戦いです。私の忠実な証人アンティパスが、サタンの住むあなた方の所で殺された時でさえ、外からの迫害があり、アンティパスは殉教する事にもなったようです。でも私に対する信仰を捨てなかった。私の名をしっかりと守ったというのは、信仰を捨てなかったということです。

もう一つは、そういう異教社会の中で生きる上での問題です。しかし、あなたに対して少しばかり言うべきことがある。あなたの所には、バラムの教えを奉ずる者がいる。バラムは、イスラエルの子らの前に躓きとなるものを置くようにバラクに教えた(二・一四)。バラムと言うのは、この時実際にバラムという人物がいたというのではなく、旧約聖書、民数記の登場人物を象徴的に用いているだけです。バラクはアンモン人の王で、イスラエルの人々がカナンに入って来る時、彼らを恐れて、占い師アラムにイスラエル人を呪ってもらおうとした王です。でもバラムは一方で、神が呪わないものを呪えないと言って、却ってイスラエルを祝福した。しかし他方、この占い師バラムは、バラク王を用いてイスラエルを躓かせるように異教の神々を拝ませた人物でもあり、イスラエルの人たちに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるようにしたようです。同じように、あなたの所にもニコライ派の教えを奉ずる者たちがいる。この「奉ずる」は御名を「守る」と同じ言葉です。どちらの名を守るか。ヨハネ黙示録はその辺り、二者択一に考える傾向が強いようです。

ペルガモンの異教社会で生活する信者たち、一方では自分の信仰を守り続けねばならない。イエス・キリストの名を捨てずにしっかり守る。他方では、この社会の人たちや風習と関わりながら生きねばならない。その中で生きる知恵のようなものが求められる。そもそも、そこに住んでいた人たちが信者になった訳ですから元々異教の風習の中に生きていた。

日本社会の私たちも同じような状況があります。分かりやすく言いますと例えば、仏式の葬儀に参列してお焼香をするような問題です。それは周囲の隣人への配慮の問題として考えればいいのですが、お焼香をすることによって自分の信仰が揺らいでしまうようでは困る訳です。

ヨハネ黙示録が二者択一的にに課題を提示しているのは、その方が事柄としてははっきりしますから。でも実際は社会の中にあってもっと微妙ですね。配慮しながら生きるか、自分の信仰を貫く仕方で生きるか、それはその時々の状況の中で、その都度、際どく判断していくしかありません。

そこで、思い起こすべき大事なことがあります。主の祈りの第一の祈願として、御名を崇める祈りを「祈りなさい」と仰ったことです。それはこのような状況下で意味がある訳です。

併せて主イエスは、戒めの中で大事なのは、神を愛し、隣人を愛することだと言われました(マルコ一二・二八以下参照)。どちらも同様に大事なのですが、第一、第二の順番を付けられました。キリストを信じる者は、隣人愛に展開して生きねばなりませんが、順序を間違えて隣人愛が第一番になると、ただ善い人になってしまう。社会で生きて行く上での配慮が信仰を曖昧にさせないためには、絶えず、礼拝に集い御名を崇め、主の祈りも御名を崇めることを第一にして祈り続けねばならない。そうすれば信仰は揺らがない。その上で、様々な人たちと関わり配慮をしつつ生活します。

御名を崇めさせ給え。直訳は、御名が聖とされますように。エゼキエル書の彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。これは主の祈りの第一の祈願と全く同じ精神です。この祈りは、私たちが汚れているという事を自覚させます。汚れた罪深い私たちが祈るのは本来相応しくないことです。それを祈れるのは、主イエスが汚れを清め、罪を贖って下さったからです。この御業をしっかりと受け止める時に、私たちはキリストの御名が崇められることを第一にして祈れる訳です。

そして、御名を崇めることを第一にし、配慮に生きることを第二にして生きる時、私たちの姿は社会の人々に、キリストの御名が聖なるものだと証しする姿になる。エゼキエル書、二三節途中から私が彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされる時、諸国民は、私が主であることを知るようになる。御名が聖とされるのを神ご自身がご自分で為されば良さそうなものですが、お前たちを通して、汚れたイスラエルの民を用いて民を礼拝者にしつつ、主を知らしめなさいます。キリストの御名が聖とされるのも、御名を崇めることを第一にする私たちを用いて実現なさる。

一般の人たちは、キリスト教徒の隣人愛を通して初めて私たちの信じる神様の事に気付くでしょう。しかし隣人愛の配慮だけなら、私たちはただ善い人になって神様の事は伝わりません。そもそも隣人愛とは、神の愛が伝わってこそ隣人愛です。行為は同じでも通常の人間愛とは異なるはずです。御名を第一にする礼拝者の私たちを通して、主はキリストが神であられることを知らせて行かれます。ただ私たち自身は、まず第一に御名を崇め礼拝をささげる姿勢を貫く。そこから結果として、人々にキリストの愛が伝わっていきます。

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