「御前に心を注ぎだす」

森田恭一郎牧師

(詩編六二・六―九、マタイ六・五―八)

これから「主の祈り」を主題に、イースターまでの間、必ずしも毎回ではないですが説教します。今日は、その本文に入る前に、いわばその序文として、だからこう祈りなさい(マタイ六・九)と主イエスが仰った御言葉を味わいます。

最近、週報に紙面の余裕に合わせて祈祷課題を載せています。アドヴェントの礼拝で読みましたルカ福音書一章のザカリヤへの天使の言葉、あなたの願いは聞き入れられたに勇気づけられて始めました。主イエスも例えばこう言っておられます。気を落とさずに絶えず祈らなければならない(ルカ一八・一)。私の名によって願うことは、何でも叶えてあげよう(ヨハネ一四・一三)。二人または三人が私の名によって集まる所には私も その中にいる(マタイ一八・二〇)。御名によって祈る時、主イエスが共にいて執り成して下さいます。祈る根拠は私たちの祈りの熱心や上手さにではなく、主イエスの「祈りなさい」のご命令と「聞き入れられる」お約束にあります。父なる神は聴いておられます。だから気を落とさず、しどろもどろでも良い、皆さん祈りましょう。

それで祈祷課題を載せ始めました。教会が必要とする祈りを記します。いざ始めてみて一か月余、何を載せたらいいのか迷います。皆さんを覚えて祈るべきこと、教会のために祈って欲しいこと、沢山ある中からどれを選ぼうかと迷い、逆に載せるべき課題がうまく見えてこない迷いもあります。でもそうやって、日頃ぶつかっている課題を改めて自覚し、祈りの言葉を紡ぎ出していきたいです。そこから、教会の方向性や幻も見えてくるのではと期待しています。

他にも祈る事柄が沢山あることでしょう。自分で祈祷課題を挙げるなら、どのような課題が見えてきますか。教会は祈りを必要としています。今、教会には祈祷委員会とか祈祷部会はありませんが、皆さん祈祷部員だと思って、祈りの奉仕をささげて下さいませんか。自分で見出された課題も良し、週報に記した課題でも良し。皆さんの祈りが教会に繋がり、二人三人…と共同の祈りになるのは素晴らしいこと。教会は祈りの家(イザヤ五六・七)ですから、主イエスが執り成して下さいます。

今日の聖書箇所、五節以下で、主イエスは偽善者のようであってはならないと指摘されました。誰に向かって祈るのかということです。人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる、そうなってはいけない。だからあなたが祈る時は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。これを読むと、だから皆で祈る祈祷会は出席しないということになりかねません。祈祷会では人に聞かれていると思うと、自分がちゃんと祈れるか、皆の前で祈るのは恥ずかしいと思ってしまいます。でも、たどたどしくてもまとまらなくても良い、むしろ祈ったら、皆からアーメンと言ってもらえる、祈祷会後に声をかけてもらえる、その心強さ、慰めがあります。

奥まった自分の部屋で祈るというのは、一人か複数か人数の問題ではなく、神様に向かって祈るということです。むしろ祈祷会での経験が、部屋で一人であっても、その祈りを共同の中での祈りにしてくれます。奥まった自分の部屋で祈るのも、二人または三人が私の名によって集まって祈るのも、どちらも正しく、矛盾はありません。

七節以下、また、あなた方が祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らの真似をしてはならない。だから短くていい。ポイントを絞って、そしてポイントを絞ったら主の祈りのようになるということです。

更に主イエスは、くどくどと祈る必要がない理由を仰いました。あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ。この主イエスのお言葉から、キリスト教の祈りについての一つの考え方が出てきます。それは、願い事を祈るのではない。それは祈る前から神様はご存知だから、むしろ、悔い改めや賛美や感謝、それに執り成しをささげるのだ、というものです。

悔い改めや賛美や感謝、執り成し…、気がつけば、それは礼拝そのものです。週報の礼拝順序を見ますと《神の招き》《悔い改め》《恵みの受領》《感謝と献身の応答》《祝福と派遣》とあり、礼拝の各々の意味づけを記してあります。祈りの所も(感謝と悔い改め)(聖霊の導きの求め)(執成し)と祈りの内容を記してあります。河内長野教会の礼拝の形を示しています。

そして、礼拝で身に付いたことが自分の祈りの形にもなります。礼拝で身に着いた祈りの形が、教会や信徒の信仰の形になります。歴史の中で教会が形作ってきた各々の教会の礼拝の形があります。カトリック教会にはカトリック教会の礼拝の形があり、それがカトリック教徒の人たちの祈りの形、信仰の考え方、生き方になっていきます。プロテスタントにはその諸教会の礼拝の形があり、それが各々その教会や信徒の祈りの形、信仰の考え方や神学、そして生き方や倫理になっていきます。当教会にも、その礼拝の形がある訳です。

あなた方の父は、願う前から、あなた方に必要なものをご存じなのだ。このお言葉から、だから願い求める必要も祈る必要もない、となるでしょうか。形式論理の展開としてはあり得ます。でも実際は違います。礼拝で長老や説教者は願いの祈りを捧げます。祈祷課題も掲げている程です。皆さんも、神様は必要なことはご存じだから願い事は祈らないという人はいないでしょう。

主イエスもこのお言葉に続けて、だから祈らなくてもいいとは仰らなかった。主イエスご自身がよく祈られました。朝早くまだ暗い内に、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた(マルコ一・三五)。その前後は、宣教と癒しの業でお忙しい様子が記されてある。その合間に、人々のために執り成しを捧げ、また静けさの中、一対一で父なる神の御心を問い祈られた。

そして「だから、こう祈りなさい」と私たちに仰って、主の祈りを教えて下さいました。主ご自身が祈られたであろう、正に「主の祈り」です。

私たちには、主の祈り以外に、自分の願い事、ご利益を求めて祈ったらいけないでしょうか。確かにキリスト教はご利益宗教ではないはずです。祈りも悔い改めや賛美や感謝や執成しです。でもそれ故に願い求める祈りを否定して、祈りの熱心さを失いたくはありません。素朴に、祈りは願い事であると言えます。第一、執成しも願い事です。誰々さんの病気が良くなりますように。他者のための執成しがあるなら、自分のために執成ししても良いはず。私の病気も良くなりますようにと。

そもそも私たちがよく祈るのは、困った時ではないですか。切羽詰まって困った時の神頼み!

困った時の神離れよりましです。何故こんな目に遭うのだ、と神を批判して神に背を向け、更に神から離れて行くより、困った時にもちゃんと神に向かって祈る。大事なことです。

詩編六一篇二~三節に、神よ、私の叫びを聞き、私の祈りに耳を傾けて下さい。心が挫ける時、地の果てからあなたを呼びます。心が挫ける時、事がうまく行かない、そのような時、地の果てにいるような想いになります。でもそこからでも、神様に背を向けずに、叫びます。

祈りを巡り、聴かれない祈り、願いは叶うのかという問題があります。思えば、時に私たちの祈りは我儘な願い事に過ぎないものです。祈ったら、全て願い通りのようになり願いが全部叶うとしたら、神様が私たちの言うなりになって、私たちが神様に対して神様になってしまいます。

六節、神よ、あなたは必ず私の請願を聞き取り、御名を恐れる人に、継ぐべきものをお与えになります。神様は聞き取って下さいます。もっとも何でもかんでもとは何か異なるようです。御名を恐れる人に「継ぐべきもの」をお与えになり、神様からご覧になって「必要なもの」をお与えになります。

詩編六二篇、私の魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、私は希望をおいている。六一篇と異なり、叫ぶのでなく黙っています。どう祈って良いのか分からず沈黙するしかない時があり、どう考えても我儘であるので祈れない時もある。そのような時でもただ神に向かえ。神様の御心が示されるのを待ちます。その思いを以て主の祈りに耳を傾けてみるのも有意義です。主の御心と祈るべき事柄が示されていることに気付きます。

自分の祈りが我儘であるかどうかはともかく、私たちの思いを超えて、私たちに必要なことを神様がご存知でいらっしゃることを信じて祈れること自体が、とっても幸いなことです。詩編は続けて、神は私の岩、私の救い、砦の塔。私は動揺しない。私の救いと栄えは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神は私たちの避け所。この詩篇は祈る姿をこう表現します。御前に心を注ぎ出せ。差し出す言葉が整わなくてもそれだけで良い。サムエル記上一章に登場するハンナ。悩み嘆いて主に祈り激しく泣きます。そして自分の祈る姿を祭司エリにこう表現しました。主のみ前に心からの願いを注ぎ出しておりましたと。このように神に向かう。祈ることを許され、祈れることは幸いなことです。

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