「ザアカイ、降りて来なさい」

森田恭一郎牧師

(エゼキエル三四・一一、ルカ一九・一―一〇)

今、讃美歌四七〇番(こどもさんびか一一四番)を歌いました。「優しい目が、清らかな目が、今日も私を見ていて下さる」。今日は「見る」という言葉に注目して話を進めたいと思います。「見る」は何となく見るのではない。ある人たちはこれを手で表現して、二本の指で指すようにして「見る」ことを表現します。しっかりと見ている手の表現ですね。

まず聖書を読んではっきりと分かる箇所を見ていきましょう。五つあります。「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』。ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった』」。

この五つの「見る」に加えて日本語に翻訳されていない「見る」があります。もう一度最初から「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこに、見よ、ザアカイという人がいた」。聖書を読む人たちに向けてザアカイに注目するように促しています。それは、ザアカイを良い意味で見てくれる人がいなかったからです。

そのザアカイは、主イエスを見ようと思いました。以前から何度も見たいと思っていました。でも、出かけてみると、もう群衆の人たちの人垣が出来て、向こう側を通る主イエスの姿が今日も見えません。ザアカイは背が低かったから余計見えません。それでこの時は、走って先回りし、いちじく桑の木に登りました。主イエスを見るためにです。木に登ってみると、他の人たちの背より高くなって、向こう側までよく見えるようになりました。そこを通り過ぎようとしておられたから丁度良かった。

私たちも今でも人気歌手やスポーツ選手がすぐ前を通ったら、何だかワクワクしますね。でも向こうから声をかけてくれることなんてないでしょう。サインを求めたら応じてくれるでしょうか…。

今日の記事では、その時、主イエスが向こうから見上げてザアカイに目を留めてくれるではありませんか。そして声をかけてくれました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、是非あなたの家に泊まりたい」。

ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。ところが、それを見た人々は呟きます。「あの人は罪深い男の所に行って宿をとった」。そもそも、二節の「この人は徴税人の頭で、金持ちであった」という説明の文章も、人々のザアカイに対する見方が映し出されていますね。「あの人は、ユダヤ人のくせに敵国ローマの税金を集める徴税人、しかもその頭で、不正に手数料を取って金持ちになっている嫌な人だ」と人々は見ている。文章になっていませんが、ここにも隠れた「見る」があります。

しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。周りの人々が呟いていても、主イエスに向かって言います。実はここにもう一つ訳されていない「見よ」があります。「主よ、見て下さい、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何か騙し取っていたら、それを四倍にして返します」。皆さん、子供の頃、お父さん、お母さんに「これ、見て見て」とよく言いませんでしたか。ザアカイもイエス様に「見て見て」と言ったのです。見て欲しかった。

今日の聖書個所には、文章には全くなっていないけれども「見る」出来事がまだあります。それはまず、ザアカイが見たことで、それまでザアカイには見えなかったことです。貧しい人々や不正に取り立てていた人々、これらの人たちが主イエスに大切にされている人たちだということが見えてきたのです。それで「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何か騙し取っていたら、それを四倍にして返します」と応えます。まだ実際の行為にはなっていませんが、生きる姿勢が心の中に芽生えて来ました。

私たちは初め、そこに、見よ、ザアカイという人がいた、とザアカイを見るように促されていましたね。財産の半分を施したりする志を持ったザアカイを私たちが見たらどう思いますか。良かったね、ザアカイさん! と嬉しくなりますか。それとも、人々のように「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」と呟いたとなるのか。

新しく生きる姿勢が芽生えてきたザアカイに、主イエスはお言葉を返します。ここにもう一つ、文章には全くなっていないけれども「見る」出来事があります。イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。主イエスが、失われたものを捜して救うのです。皆さんが何か物を失くして捜し物をするとき、何となく捜しますか。ここにあるかな、あそこにあるかな。一生懸命、よく見て捜しますよね。

主イエスもそうだったのです。捜して救うために、エリコの町に来られた。丁度、羊飼いが羊の群れを探し出し、その世話をする(エゼキエル三四・一一参照)。それで捜し出す。そのためには、よく見て捜す。だからお捜しになる主イエスのお姿に隠れた「見る」がありますね。  

何故、よく見て捜したのかと言いますと、主イエスは「泊まりたい」と仰いました。これは「神が私(=主イエス)をザアカイの家に泊まらせることにしている」という言い方です。だから主イエスは、必死で見回して見て捜しました。ザアカイ、どこにいる、どこにいる…? そして見出します。あ、木の上にいた! イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、是非あなたの家に泊まりたい」。降りてきなさい。主イエスの招きです。

一生懸命捜してザアカイを見つけられた主イエスと、「見て見て」と主イエスに見て欲しかったザアカイ。この出会いが起こりましたね。そもそもザアカイはアブラハムの子です。アブラハムの子は、神様の遣わす救い主に会いたいと思っている人たちです。だから、その救い主に会えて嬉しかった。益々、「見て見て」という気持ちになります。

私たち日本人は、どうでしょうか、アブラハムの子ではありません。だから本当には誰に会いたいか分からない所があります。有名歌手に会えばそれでいいのでしょうか、スポーツ選手に会えばそれで満足するのでしょうか。

今日、皆さんは教会に来て下さいました。教会に来て下されば、誰に会うべきかはっきりします。主イエスに会います。そのために集います。また聖愛保育園や清教学園幼稚園や中学高校、誰のことを気付くべきか、本当ははっきりしている。主イエスがおられることを知り、教会に繋がって、主イエスに出会います。せっかく、この保育園や幼稚園、中学高校に来たのに主イエスに関心が向かず、教会に来ても主イエスに出会わないとすれば、とてももったいないですね。教会には、主イエスに会いに来ます。私たちはまず、この主イエスを、しっかりと「見る」ようにと招かれています。

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