「星は導く」

森田恭一郎牧師

(イザヤ六〇・一―四、マタイ二・一―一二)

学者たちは、東方で星を見て、星の指し示すその方を探し求めて旅に出ました。今のイラン・イラクのチグリス・ユーフラテス川に沿って川上へと上ってそれからカナンの地域へと南下する、何千キロもある何日もかかる道のりです。占星術の学者たちが幼子に贈り物を献げたこの出来事は、一月六日であったと言われるようになりました。一二月二五日に星が輝き、エルサレムのヘロデ王の宮殿に寄って「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と場所を確認し、ベツレヘムの幼子の所に到着したのは一月六日。今日は丁度一月六日なので、この聖書個所を選びました。来週も続く聖書個所を選びます。

夜になると星が輝いています。私たちもふと星を仰ぎ見ることがあります。日常の営みに追われている自分であることに気付きます。何か憧れを以て星を見上げています。日常の喧騒に埋没し、他のものに振り回されたり翻弄されたりする自分なんかでは、本当はありたくない。何のためにどこに向かって生きているのか分からなくなって自分を見失ったりしたくなはない。あの星のように静かに輝いて、自分が自分であることが揺らがないようでありたい、愛と真理に生きるような自己実現したいと憧れを持ちます。

それは一つの言い方をすれば、自分自身をしっかり持つ、自分に対して王になることです。星を仰ぎ見るとき、そのようなことを意識的にあるいは無意識的に思い巡らしている様に思います。そして、本当に愛と真理を体現する真の王に出会ったら、人は周囲に振り回されないで、安心して自分らしく、そして愛と真理に生きる自分であることが出来るようになるのでしょう。

学者たちも、そのようなことを思いながら、いつも星空を見上げていたのではないでしょうか。そして、紀元前七年と言われております。金星と火星だったか木星だったか、星と星が重なって夜空が特別に輝く時があった。学者たちは、真の王=メシアの到来の徴と受け止めて、旅に出ます。彼らがそう受け止めることが出来たのは、もしかすると、紀元前八世紀、アッシリアに北王国=北イスラエルが滅ぼされ、東方のアッシリアに捕虜として連れていかれた人々の末裔であったのではないか。彼らは聖書の伝承を知っていて、彼らもメシア到来を待ち望んでいたのかもしれない。もっともこれは楽しい想像で根拠はありませんが…。

王になると言えば、私たちはもう一つ、王になりたい願望を心秘かに持っている。それは他者に対して王になることです。相手を自分の思い通りにしてしまいたいと考え、実際にそのように振る舞ってしまう、そのような王です。エルサレムにいるヘロデはそのような、正に王として登場します。自分とは異なる意見を持つ者に対し、あるいは自分の存在を脅かすものに対しては亡き者にすることを厭わない、他者に対して王であり続けることを絶対視する王です。

ヘロデ王は、民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。答えはベツレヘム。旧約聖書ミカ書から正しく答えを導き出します。でも不思議なことにヘロデだけでなく、答えを導き出せる祭司長たちや律法学者たちまでも、星を見出すことが出来ません。愛と真理を求めようとはしない彼らは星を見出そうともしません。

学者たちは、ヘロデから旧約聖書の言葉を聞いて、出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びに溢れた。何故喜んだのか。星を見てとありますが、星なら遥か東方で既に見て、その星に導かれてここまでやって来たはず。改めて星を見て喜んだのは、導かれた場所が聖書の語る通りベツレヘムだったからです。聖書が真理を指し示していることを確認出来た訳です。星は、聖書が語る通りにベツレヘムの、ユダヤ人の王としてお生まれになった方がおられる所へと、彼らを導きました。そして、ついに止まります。「ここにキリストがおられる」と幼子キリストのおられる場所の上に止まります。

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのでした。一説によりますと、これらの献げ物は占星術の商売のために必要な物だったとか。それを全て献げてしまいました。自分に対して王になることを求めた彼らは、真の王に献げ物を差し出すことによって、それまで自分を支えていたと思っていたものから自由になりました。

因みに、ここに三種類の献げものがあるので、ここから三人の学者たち、三人の博士たち、国によっては三人の王たちと言われるようになりました。この三という数字から、黒人、白人、黄色人種の世界の人種・民族を代表する三人となり、この日は、主イエスがこの世界の人々にご自分を公に現わされた日、公現日と言われて一二月二五日から一月六日がクリスマスの期間となりました。クリスマスの飾りは一月六日まで飾ります。そして三人ということから更に、まだうら若い青年期の人、脂の乗り切った壮年期の人、熟成した老年期の人の三人だったと言われたりもします。聖書の御言葉を味わいながら楽しい黙想が広がります。

話を戻しまして、学者たちは平伏して幼子を拝み、礼拝を献げます。すなわち幼子に黄金、乳香、没薬を献げます。そして「ヘロデの所へ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行くことになります。この道は、話の筋としてはもちろん、ヘロデ王のいるエルサレムを通らない地理的な意味での別の道ですが、もう一つの意味を私たちに投げかけています。それは今までとは異なる新しい道です。元旦礼拝で「新しい土地を耕せ」(ホセア一〇・一二)、「恵みの種を蒔け」(Ⅱコリント九・一〇参照)との御言葉を味わいました。別の道とは新たな人生の道、今までとは異なる、人生の新しい土地を耕し、恵みの種を蒔く歩みです。

学者たちは、占星術の学者であるのに、そのために必要な黄金、乳香、没薬を献げてしまいましたから、占星術はもうやめてしまったかもしれません。あるいは、その学問の究める事柄が、イエス・キリストであることを確信しました。キリストと出会って、その前と後で人生が全く変わらないということは考えられません。彼らはそれまでの占星術の学問を、愛と真理のイエス・キリストを証言する「伝道の学問」にしていきます。元の場所に帰りますが別の道を通って生き方を考えます。帰り着いた場所は、彼らには、新しく耕すべき新しい土地となりました。真理と愛の真の王を指し示す星を求めてきた彼らが、星に導かれて幼子キリストに出会い、そしてキリストを証言する伝道者になりました。今度は彼ら自身が、その王を指し示す星になって人生を歩む者となります。

旧約聖書イザヤ書を読みました。光はキリストを指し示します。ここの「あなた」を「キリスト」と読み替えるようにしながら聞いて下さい。起きよ、光を放て。あなた(→キリスト、以下同じ)を照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる(六〇・一―二)。

教会は「ここにキリストがおられる」と真上に光り輝く星が留まっていてこそ教会です。学者たちは、ヘロデ王にはキリストがここにおられることを隠さなければなりませんでした。でも教会は、真上に星が輝いていることを人々に見えるようにして、「ここにキリストがおられる」このことを示していかねばなりません。

イザヤ書を続けてよみましょう。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから、娘たちは抱かれて、進んで来る(六〇・三―四)。キリストを指し示す星が光を放ちます。その光が本当に輝けば、学者たちが求めて歩み始めたように、人々は集い始めます。

そして学者たちが星として光り輝く者となったように、それは私たちもです。パウロがキリスト者をこう表現しました。「神の子として、世にあって星のように輝き」(フィリピ二・一五)。その星の光とは、日曜日、主日毎にここに集う私たちです! 日曜日の主日、礼拝と聖餐式にあって、私たちが星になって「ここにキリストがおられる」とキリストのおられる場所に留まる訳です。そしてあの学者たちを導いた星が東方で輝いたように、月曜日から土曜に極東の地でも、私たちが日常生活の中で輝いて人々を静かに照らします。

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