「御名によって呼ばれる者」

森田恭一郎牧師

(イザヤ四三・五―七、Ⅰペトロ四・一二―一九)

今日の聖書に「キリスト者」という言葉が記されています。新約聖書の他の所では二回。教会外の人たちが言っている言葉として紹介しています。そして今日の所では、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい。先週洗礼を受けられてキリスト者になられた方も私たちも含め、今日は、キリスト者になるとはどういうことか、キリスト者の側から自分自身のこととして考えてみたいと思います。

様々な言い方がありますが、今日は三つの視点で申します。それはまず第一に、ナザレのイエスを、神の御子、我らの救い主、キリストとして、告白し礼拝をささげる人たちです。日曜日には礼拝をささげるために教会に集い、キリストの体なる教会に繋がっている者たちです。もしそれが、誰かと会うために、何かの奉仕があるからと、礼拝以外の事が第一になって教会に来るとしたら、何か課題がありますね。これは私たちの側から神様の側へのキリスト者の姿です。

第二に、これは神様の側から私たちの側へのキリスト者の姿です。今日の招きの言葉で読んで戴きましたイザヤ書四三章一節、恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。贖うという言葉は、今日、日常用語としては使わなくなりましたが、意味は買うとほぼ同じ。お金を出して物を買ってそれは自分のものになる。神様が私たちを贖う。もちろんお金でではなくキリストの命を代価としてささげて、私たちをキリストのものとして下さる。病になって余命僅かという時に、神様のお言葉として、あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶと聞き取ることが出来たら安心ですね。あなたは私のものだから、見放したり粗末に扱ったりはしない。しかも神様ですから、地上でも天上でも。そして、忘れることなく名前を呼んで下さる。

そして第三に、キリストの苦しみに与り、それ故キリスト者として苦しみを受ける者たちです。今日の聖書個所はこの第三点を中心に語ります。

一二節、愛する人たち、あなた方を試みるために身に降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。キリスト教は、信じたからと言って、人生から苦しみが無くなるのかというと、必ずしもそうではない。むしろ試練として降りかかってくる。苦しみのない人生なんてありません。

苦しみについて幾つかに整理できます。一つは目標を達成するための苦しみ。受験の辛さなどそうです。でもそれは目標に向かって自分から選び取るもので、苦しみの意味ははっきりしています。逆に、受験勉強をちゃんとしなかったから不合格だったというような、自分のせいで招く苦しみもあります。これも苦しみの理由は納得できます。

二つ目は、試練としての苦しみ。ペトロ書はこれを言っているようです。苦しみは鍛えるための試練だと意味を受けとめようとする考えです。

また、楽な道と苦しい道とが人生の選択肢としてある時には、苦しい道を選んだ方が益になる事が多い、と経験的に言えます。 

そこで三つ目、キリスト者だからとわざわざ苦しみを求めて生きなければならないと思う必要はありません。でもペトロ書の時代、選択の余地もなく、それこそ降りかかってくる迫害の苦しみが既にあった。不条理という苦しみです。これを試練として受け止めよう、神の愛故の試練という受けとめをしようと呼びかけて励ましている訳です。

ここでペトロ書が呼びかけているのは、これを驚き怪しんではならないということです。この言葉は、上段の四節の、キリスト者たちがひどい乱行に加わらなくなったので異邦人たちが不審に思うと同じ言葉です。彼らはキリスト者を驚き怪しんだ。なぜそうなれるのかと。それに対して私たちは答えることが出来るはずです。それは、恵みに満たされているから乱行に加わる必要はないのだと。私たち自身は不審に思う必要はない。

でも、キリスト者になったのに、何故、苦しみがあるのか。何か失敗するとキリスト者のくせにと言われてしまう、こんなことになる位だったら受洗しなければ良かったということになりかねない。それでキリスト者であることを社会の中では隠したくもなる。そうやって神様に対して驚き怪しんでしまうことが起こり得る訳です。

この事については、救い主ご自身が十字架の苦しみを担われたというのがキリスト教ですから、苦しみがあるのはその信者の私たちにとってもある意味で当然です。でもそれは、だから苦しみがあるのは仕方がないということではなく、苦しみを経験するときに、十字架の主が寄り添い共に苦しみを担っていて下さると慰められることです。

ペトロ書はその試練としての苦しみを、神の栄光と重ねているようです。一三節以下、むしろ、キリストの苦しみに与れば与るほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れる時にも、喜びに満ち溢れるためです。あなた方はキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなた方の上に留まって下さるからです。 それから一六節後半、むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい(=神に栄光を帰しなさい)。

栄光の霊。聖霊と言わずにわざわざ栄光の霊。そしてその栄光の霊が留まって下さる。この留まるという言葉は、他では休む、安んじるというような意味合いで訳されるものです。例えば、疲れた者、重荷を負う者は、誰でも私の下に来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる(マタイ一一・二八以下)。これをペトロ書に用いると、神をあがめ、神の栄光をたたえる人々の所では、栄光の霊は安心して休みを取れる。因みに「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(マタイ八・二〇)と言われた主イエスにとって地上には安んじて休める所はなかった。

それなら私たち河内長野教会は? 神様は少しでも安んじてお休みになれますか? そう伺って、休めますよと応えて戴けるなら幸いです…。

一七節今こそ、神の家から裁きが始まる時です。裁きとは、裁いて地獄に放り出すことではなく、神の栄光へと繋がるように裁くことです。主イエスはペトロに信仰をお問いになりました。「あなた方は私を何者だというのか」。それでペトロは答えて「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ一六・一五以下)。そう告白してキリストの栄光をたたえました。神の家=教会が試練を受けてこの信仰を堅く保つように裁かれます。

そして一八節、「正しい人がやっと救われるのなら、不信心な人や罪深い人はどうなるのか」。福音に従わない者たちがそのまま信仰に至らないなら、その行く末は? でもそうならないように、信仰を問いかけ、神の栄光をたたえる人へと変えられていくように裁いて下さる訳です。

一九節、だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂を委ねなさい。キリスト者はどうあるべきなのか。あの人からああ言われた、辛い目に遭わされたと、そのことに思い捕らわれて反感や憎しみを持ったりしないで、コツコツと善い行いをし続けていけばいい。そして祈りつつ真実であられる創造主に自分の魂を委ねなさい。

救い主と言わずに創造主と言っています。当時の周囲の思想や宗教は、創造された世界から自由になることが救いだと考えていたようです。なまじ肉体なんかがあるから、病になれば苦しいし怪我をすれば痛い。この肉体から自由になって霊魂になれば、苦しみも痛みもない…。聖書はそうは考えない。限界や弱さを伴う肉体を抱えた自分の存在、それをイザヤ書四三章七節はこう語ります。彼らは皆、私の名によって呼ばれる者。私の栄光のために創造し、形造り、完成した者。何と素晴らしい私たちではありませんか。だから身体の甦り、創造が完成していく所に救いがある訳です。

一五節も触れておかねばなりません。あなた方のうち誰も、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。人殺しなど犯罪を犯して牢屋に入れられるような苦しみを受けることがないように。それに対して、何も悪いことをしないでキリスト者として苦しみを受けるなら恥じる必要はないと言っている訳です。

他人に干渉するとは、犯罪ではないですが、例えば、君はもっとこうすべきだと一方的に言って相手を自分の思い通りにさせようとすることです。仮に善意からであったとしても、その時、自分が神様になってしまっている。みんなから嫌がられてしまいますね。

それに対し私たちは、他人に干渉せず、また他人から干渉されてもそれに振り回されずに、コツコツと善い業に励み、祈りつつ魂を創造主に委ねて生きればいい。冒頭に、愛する人たちとありました。直訳すれば愛される人たち。私たちはキリストに愛され、キリストの名によって呼ばれる者です。この一年を振り返り、振り回されないで、神様から戴いた恵みの数々を思い起こしたい。そして恵みをこそ携えて新年を迎えたいものです。

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