「神の御子、なお低く降り給う」

森田恭一郎牧師

(詩編一一三・四―九、マタイ一・一八―二五、Ⅱコリント八・九、ヘブライ二・一七―一八、フィリピ二・六―一一)

クリスマス、それは天の神の御子が救い主として、地に降って来られ、マリアの胎に聖霊によって宿り誕生された出来事です。誕生と言っても、天から降って来られたので御子のご降誕と言います。今晩は、御子がこの世に降って来られたことの意味を巡って、御言葉から思い巡らします。

そこで、マリアは言った。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さったからです。クリスマスは、マリアにとって、主なる神様が目を留めて下さるという出来事でした。身分の低い、この主のはしため(=僕の女性形)にもです。それでマリアは、「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌いました。このマリアの賛歌を「あがめる」のラテン語からマグニフィカトと言います。マグニチュードという地震の大きさを表す言葉と元は同じです。彼女の心の中に主なる神様が大きく満ち溢れ、主をあがめる歌になりました。

身分の低い主のはしためのその心の中に神様が満ち溢れるために、神様はどうなさったのでしょう。詩編に、主は全ての国を超えて高くいまし、主の栄光は天を超えて輝く。私たちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き…、天を超えて高きにいます主なる神様です。その神様が、ただ上から下を見下ろしておられるのではありません。なお、低く降って天と地を御覧になる…。

高~い天の御座から、低~い身分の主のはしための所まで、神様は降りて来て下さった。それでマリアの心の中に神様が満ち溢れる程に大きくなりました。そしてマリアは、心だけではありません。天におられた神の御子が、マリアのお腹に、聖霊なる神様の御業によって、宿られました。

そのことに驚いたのは、婚約者ヨセフでした。自分の身に覚えがないのに、婚約者が既に母になっているのですから。いろいろ思い巡らします。

そして、このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」。 マリアが主に目を留めてもらったように、マリアの婚約者であることによって、ヨセフもまた主に目を留めて戴いていることに気付いたに違いありません。

生れて来た男の子イエス様は、一般にはヨセフとマリアの子としてその家庭に育ちます。ヨセフは貧しい大工でした。その後息子や娘も生まれて大家族ですが、主イエスが成人する頃には、ヨセフは既に亡くなっていたらしい。いわば母子家庭で、ヨセフに代わり一家の大黒柱としての役割を負っていかなければならなかった。救い主として公の活動をするようになったのは、弟や妹がそれなりに独り立ち出来るようになった、およそ三十歳の頃でありました。天の御座におられた神の御子が地上に降って来られたというのに、王様の王宮に生まれたのではなく、生活や生計を立てる労苦ばかりのヨセフの家庭でした。御子が低く降って来られた場所はこの貧しい家庭でした。

このことをコリント書はこう表現します。あなた方は、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなた方のために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためだったのです。

この豊かさとは、マタイ福音書の言葉で言えば、

この全てのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は「神は我々と共におられる」という意味である。

豊かさとは、経済的豊かさというよりは、神が我々と共にいて下さるという豊かさです。

貧しさとは、神が我々と共におられない貧しさです。そして罪とは、真の神が共におられることを拒んで、他のものや自分を神としてしまうことです。自分の民を罪から救いとあります。主イエスの名前は、「救う」という所に由来します。丁度、例えば正しい男と書いて正男という固有名詞になるように、救うという意味の言葉が固有名詞になりました。罪の故に人々を断罪して人々から遠のいてしまわれるのではなく、むしろ共にいて下さる。そのように救って下さる。主イエスは、私たちの代わりに罪を負って下さり、神が共におられない所へと見捨てられる。主イエスは十字架で叫ばれました。「我が神、我が神、何故、私をお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)。神に見捨てられる。目を留めて戴けない。それが罪の裁きとしての死です。それを主イエスが私たちの代わりに担い給う。それが、主イエスが貧しくなられたということです。

そのお蔭で、私たちは見捨てられることはなくなりました。私たちが迎える死は、罪の裁きとしての死ではなく、天国の入り口としての死です。そのように豊かにして戴きました。私たちは裁かれることなく罪赦される豊かな者となりました。但し、それが完全に明らかになるのは終末です。

それまでの間、私たちは地上に生きねばなりません。その地上の歩みについてヘブライ書は語ります。それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです。時に試練を受ける地上の生活にあって私たちは勘違いしがちです。試練を受けるから、苦しみがあるから、だから神様に見捨てられているのだと…。でもそうではなく、試練や困難の時にも主は我々と共におられます。そこにこそ主は低く降って来られました。私たちと同じようになられて寄り添って下さる。私たちは、そう気付かされ、そう信じます。

御子が低く降って来られたことについて、フィリピ書はこう語ります。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、却って自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、謙りくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。神の身分から僕の身分へ。一方マリアは、目を留めてもらって主をあがめ、今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょうと確信しました。

ここに、神と人とのある種の逆転現象があります。逆転と言っても、私たちが神になる訳ではありませんが、マリアは身分の低い所から幸いな者へと高められ、御子キリストは神の身分から僕の身分へ低くなられました。しかもそれはただ私たちと同じ所に降って来られただけではありません。それは死に至るまでです。私たちがいずれ死を迎える時、キリストは既にそこにおられます。更に、十字架の死に至るまで。先ほど申しましたように、罪の裁きとしての死です。それは、私たちよりももっと低い所です。その低い所から、下から、地上の私たちを支えて下さいます。地上の営みに於いても、最期に於いても、私たちより低い所から支えられる故の確かな希望があります。

このフィリピ書の言葉は、初代キリスト教会が讃美歌として歌い、あるいは自らの信仰としても唱和した信仰告白の言葉であったのではないか、と言われているキリスト賛歌です。九節以下で語ります。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの御名に跪き、全ての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。だから私たちも声を合わせて神をたたえたい。

今晩ここに私たちは集い、御言葉を聴き、賛美をささげています。この後、清教学園の皆さんがハンドベルの演奏と賛美をささげて下さいます。楽器なら合奏、歌なら合唱、言葉なら唱和。共々に「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

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