「神の愛が現れた」

森田恭一郎牧師

(イザヤ七・一四、テトス三・四―七)

今日はクリスマスの礼拝を皆様と共にささげることが出来まして嬉しく存じます。

御子がお生まれになる前の旧約の人々は、何を思いながら過ごしたのでしょうか。旧約聖書から引用してみます。私たちの神、主に並ぶものがあろうか、主は御座を高く置き、尚低く降って天と地をご覧になる(詩編一一三・五―六)、主よ、天を傾けて降り、山々に触れ、これに煙を上げさせて下さい(詩編一四四・五)、どうか、天を裂いて降って下さい(イザヤ六三・一九)。共通点にお気づきのことと思います。「降って下さい」という旧約聖書の希望や約束の言葉です。

これらの言葉の前提は、神のいます天は天、我ら人間のいる地は地、天は閉じられており、天と地との繋がりを見出すことが出来ない。それで天を裂いて降って下さいという希望の言葉となります。今日のイザヤ書は、その確かなしるしとして、それ故、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。インマヌエル=神は我々と共におられると約束下さいました。

クリスマス、それは、高きに御座を置かれる神様が天を裂いてこの地に降って来られた出来事です。そのしるしは、人となられたイエスです。その出来事、クリスマスは、保育園や幼稚園では可愛い赤ちゃんイエス様の誕生と言いますが、地に降って来られたことを念頭に置きますと、降誕と言います。地上の人間にとって、この世に降って来られた男の子=イエスが、神は我々と共におられる、そのしるしなのです。でも世の中には、男の子が生まれるのは沢山ある訳ですから、もう一つ、天から降誕してきた男の子であると分かるしるしが必要です。それがクリスマスの晩、天使が羊飼いに告げた言葉です。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなた方へのしるしである。

そして、天の大軍が加わり「天には栄光、地には平和」と神を賛美する。羊飼いたちは天が裂けて大空に広がった天使たちの歌う光景を見、その賛美の歌声に包まれたのでした。羊飼いたちは、飼い葉桶に寝ている乳飲み子、このしるしをヒントに救い主を探し求めてベツレヘムに向かい、主イエスにお目にかかったのでした。

この飼い葉桶の乳飲み子イエス、それが、救い主がお生まれになったしるしであり、神様が天を裂いてこの世に降って来られたしるしです。

今日のテトスへの手紙はこのことの更なる意味をこう告げています。私たちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れた。神様が天を裂いて現わして下さったのは神ご自身の慈しみと愛です。現れたというのは頁を前にめくって二章一一節、実に、全ての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました、にもあります。私たちは、神ご自身のこの慈しみと愛、全ての人々に恵みをもたらす愛のお蔭で救われます。

五節にありますように、神は、私たちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、私たちを救って下さいました。ここで、私たちが「私たちは」という主体から「私たちを」という客体に変化していることが大事です。私たちが主体になって、何か修行や善行を積んで、悟りに達しったりして救いを勝ち取るのではない。私たちは救いの客体であって、神が主体で私たちを救って下さる訳です。

そして、神の慈しみも愛も、また救いの業も、主体である神様の側のものです。それが天に在った。そしてそれがクリスマスに主イエスと共にこの地上に降って来られた。

この時、天は地と繋がり、地が天に繋がってもらえました。お蔭で被造物全体が天に繋がるものとなった訳です。ただ、それを自覚できるのは人間だけです。他の被造物には出来ない。神様の方が天を裂いて、天を開いて、お心を開いて下さった、それを人間は自覚し得る。そして、神様が天を裂いて、地へと自らを開いて下さったことを私たち人間が自覚するためには、それを、今度は私たちの側で心を開いて、天に触れる、天に入って来て戴くことが必要です。

このことが実現するために必要なこと、五節後半です。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。聖霊の導きによる洗礼を受けることによってです。先週、ザカリヤの話をしました。時が来れば実現する天使の言葉、洗礼者ヨハネの誕生を告げる天使の言葉を信じなかった、それで口が利けなくなった。その彼が、ヨハネが誕生して、板に(先週の板を見せて)「その名はヨハネ」と書いたとき、口がほどけて話が出来るようになった、いや、賛美できるようになった。天使が告げた事を板に書いて外に向けて表明したときに、賛美する者となった。今日、洗礼式を執り行いますが、それは心の板に「イエス様は私の救い主です」と記す。その時心が天に向かって開き、天から降って来られた主イエスに繋がる。

六節には神は、私たちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を私たちに豊かに注いで下さいましたとありますが、聖霊が注がれるとはどういうことなのでしょうか。何か特別な体験や実感を伴うのだろうか。大切なことは、ここに私たちの救い主イエス・キリストを通してとあります。聖書に聞き、福音に聞き続けて、人となられて地上に降って来られた主イエス・キリストに思いを向けて心を開いていく。「十字架にかかられ死人の内より甦られたイエス・キリストは私の主である」と告白していく、告白し続ける所に、私たちの救い主イエス・キリストを通してということが成り立ち、ここに聖霊が注がれる訳です。

その時に気が付くことがあります。神様が天から降って来られたら地上の人間はどうなるか? 可能性は二つ。一つは、神様はその正義を以て地上の罪人である人間を裁き滅ぼされる。もう一つの可能性は、神様の正義を貫いて罪を断罪するけれども、神様御自身であられる救い主、イエス・キリストがそれを背負って下さり、贖って下さって、私たちの罪はお赦しになるということ。この二番目の可能性に気付く。

そもそも洗礼は古い自分が新しい自分になることです。神を信じないで滅ぼされるべき古い自分から、神に心を開いて神を信じる新しい自分へと生まれ変わり新たに造り変えられる。新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗い(五節後半)となる訳です。洗礼に於いてそれが約束・保障されるのは、主イエスが洗礼を受けられて逆の出来事が起こったからです。

イエスが洗礼を受けられた時も、主イエスがそれまでの古い自分が死んで、その後の新しい自分になる。キリストは罪を犯すことなく、あくまでも神の御子のままで罪人ではないのに、敢えて罪人の一人に数えられる罪人になられた。全ての人の罪を代わりに背負って、罪人になられて罰を受ける者になられた。古い自分から新しい自分へ。そのお蔭で、罪が断罪されることが曖昧にされないまま、人間のための罪の贖いが成就して、私たちが洗礼を受ける時には、逆方向で古い自分から新しい自分へと、新しく生まれ新たに造り変えられる。滅びるべき古い自分から、永遠の命を受け継ぐべき新しい自分へ。七節、こうして私たちは、キリストの恵みによって義とされ、希望通り永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。

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