「我慢と忍耐と愛と」

森田恭一郎牧師

(黙示録 2・1―7)

ヨハネの黙示録を年二~三回、説教しています。その内一回は終末主日に合わせて説教します。

今日は二章の初めの個所です。エフェソにある教会の天使にこう書き送れ。天使とありますが、必ずしも教会の守護天使ということではなく、教会の、地上にありつつも、天上に基礎を持つ天的な存在であることを表現しているようです。ヨハネ黙示録は黙示文学に属する文学形態の一つですが、黙示文学の特色が今日の個所にも顔を覗かせています。その特色を追って行きます。

まず二節、あなたの行いと労苦と忍耐を知っておりとありますが、これも黙示思想の発想が背景にあるようです。地上の信徒や教会は労苦と忍耐を余儀なくされる、という発想です。信仰者であるが故に迫害され、信仰も認めてもらえない。

イスラエル史を思い起こすと、バビロンからの帰還以後、結局、ユダヤの国の復興はままならないまま。真の神がおられるのに、偽りの神々を信じる為政者たちが世を支配している。急進的な人たちが、為政者への反旗を翻すが結局、鎮圧されていく。そのような中で、黙示思想が醸成され、紀元前二百年位から紀元後百年位までの間、主イエスが登場する時期も含めて、黙示思想が広がる。それで福音書の小黙示録やパウロの書簡に見られる黙示思想的表現やヨハネ黙示録など新約聖書にもある訳です。旧約末期からの黙示思想を保持し後世に伝えたのは、何よりもキリスト教会でした。

二節後半、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。偽使徒や偽預言者が登場するのは、伝統的に語られる終末時に起こる艱難の一つです。その偽使徒らに対して三節あなたはよく忍耐して、私の名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。これは、神の名の故に艱難を忍耐した信徒たちを称賛する黙示思想が背後にあります。

五~六節には悔い改めについての記述があります。信仰者は悔い改め得るが、不信仰な人は悔い改めないといったような、人間を二つに分けて考える考え方も黙示思想の一つの特色です。七節は、勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。勝者と敗者を分け、悪はこの世では幅を利かしているようでも詰まる所、最終的に勝つのは信仰者だという発想。その本来意図している事柄は、信仰故に被る艱難の中にあっても、信仰を捨てることなく希望を持って生きて行こうという信仰者への励ましや勇気づけにあります。 

しかし人間を二つに分ける二元論に伴う危険があり、それは自分を義人の側に置き、不信仰者を滅ぼされる者として見下してしまう思いに引き込まれることです。自分を正当化し、相手を不信心な悪者に仕立て上げて悦に入るような思いです。ある註解書の言葉をそのままご紹介したい。「人間界に関する二元論的把握はしかし、黙示録の持つ危険な側面である。対立者に対して対話を試みることをせず、それを一方的に憎むということは、自分の信仰すらも支配下に置く神に対しての信頼の欠如の裏返しの表現である場合が少なくない。信仰の純粋性を守ろうとする意図は高く評価すべきであろうが、しかしこの姿勢では、自分自身に対しての厳しい問いかけが行われる余地は乏しく、信仰の硬直化は避けがたい」。

ヨハネの黙示録を読む時も、一方でこの黙示思想の表現を読みながら、他方でキリストの恵みを見落とさないことが大切です。ヨハネ黙示録は注意深くも、黙示思想の故に信仰者が陥り易い危険を察知しているようです。それで四節、しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めの頃の愛から離れてしまった。初めの頃の愛とは、対人間関係の隣人愛というよりは、神への愛のことです。神は全てを愛の対象にしている。その神の恵みから離れて「私救われる人、あなた滅ぼされる人」といった、自分の信仰に立脚点を置き、相手を裁く二元論の在り方を戒めているようです。みんな罪人です。その私たちが恵みによって救われてきた訳です。その神の愛に基づく恵みは、元々の黙示思想にはあまり馴染まない。明快に善は善、悪は悪と分ける。希望を持つのには適していますが、相手を裁きかねない所に黙示思想の危険性があります。聖書に載っていても、その黙示表現を文字通り鵜呑みにしないことが必要です。

さて、今日の説教題を「我慢と忍耐と愛と」と致しました。我慢と忍耐の違い、どうお考えになりますか。二節で「私は、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており」。ここには行い、労苦、忍耐の用語が出てきます。この三つはⅠテサロニケ一章三節にも出てきます。「あなた方が信仰によって働き、愛のために労苦し、また私たちの主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していることを、私たちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです」。ここから分かることは、忍耐は希望に連なっているということです。ローマ書五章三―四節もそうです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」。忍耐は希望に至る。その点では我慢は希望には繋がらない。

我慢の方は二節、続けて「また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている」。我慢は、悪者どもに我慢できずと用いられますから、変に我慢しなくても良いのですね。どのような悪者どもに我慢しなかったかというと、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。この偽の使徒らは、十二使徒ではなく(時代が下がります)巡回伝道者と言われています。本人たちは自分はキリスト者だと思っていたのかもしれない。しかし彼らの嘘を見抜いた。どういう点が嘘だったか書いていません。今日の私たちで言えば、聖書と信仰告白からズレていたのでしょう。信仰からズレないように、特に教会として異端に対しては我慢しなくても良いということです。

しかし一方で三節ではあなたはよく忍耐して、私の名のために我慢しとなります。キリストの名のために我慢することを称賛している。忍耐のように希望に繋がらなくても、とにかく我慢しなければならないことはある、ということでしょう。ケガをして痛い時、それは我慢するしかない。治療が一段落してリハビリの段階に入ると、これは辛くても、元に回復する希望を持って忍耐します。

次に、よく忍耐して、私の名のために我慢し、疲れ果てることがなかった。ただ「疲れる」でなく、「疲れ果てる」ことはなかったという日本語は面白い。文法的には完了形なので疲れ果てると訳出したのでしょう。この教会で私は良くねぎらいのお言葉を戴きます。お疲れになりませんように、それから、お疲れが出ませんようにと。どちらも区別なく聞き、私も同じように用いていましたが、以前、ヘルペスになった時に、あることに気が付きました。医者に行ってヘルペスだろうと診断され「疲れていませんでしたか」と問われました。殊更に疲れたとは思っていなかったですけど…と答えましたが。何に気付いたかというと、疲れるだけなら良し、誰だって疲れますから。でも今回はヘルペスとして疲れが出たのだと思いました。疲れが出ないように健康を保たないといけないと。

疲れ果てる。エフェソの教会の人たちも、巡回伝道する偽使徒たちとの対応に疲れただろうと思います。でも疲れ果てることはなかった。キリストの名の故の我慢だったからです。

キリストから離れた所で、我慢すると疲れ果てます。だから、五節もあなたは初めの頃の愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めの頃の行いに立ち戻れ。初めの愛とは、キリストへの愛です。たとえ異端者だとしても、相手を論駁し排除することだけに終始して、キリストへの愛から落ちてしまうと、自分自身が偽信徒になるぞと、注意を促しているようです。だから続けてもし悔い改めなければ、私はあなたの所へ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。燭台は教会を指していますから、燭台を取り除けるというのは、神の愛と神への愛を失うと教会性そのものを失ってしまうよ、と注意を喚起している訳です。

七節、教会に対する勝利を語ります。最終的勝利を強調するのも黙示思想の特色です。耳ある者は、“霊 ”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。言うまでもなく創世記の記事を念頭に置いています(創世記二章八―九節、三章二二節以下)。善悪の知識の木から取って神に背いたままの人間が命の木からも取って無限に生きたら大変ですから、エデンの園から追放されました。その人間が、キリストによって罪を贖われたことを受けて、終末の勝利を得る時には命の木の実を食しても良いことになる。勝利を強調していますが(私たちも注意を向けたいことは)その強調点が、敗者に対して勝利を誇ったり敗者を見下げるのではなく、命の木の実の祝福にあることです。

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