「救い主の心構え」

森田恭一郎牧師

(ペトロ一 4・1-5)

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなた方も同じ心構えで武装しなさい。キリストと同じ私たちが持つべきこの心構えとは何か、これが今日の主題です。あるいは二節、それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。私たちキリスト教徒としての残りの生涯を神の御心に従って生きる心構えとは何か。

私たちの心構えに先立ち、主イエスの救い主としての心構えがあります。その内容は「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えて下さい。(中略)世界が造られる前に、私が御許で持っていたあの栄光を」(ヨハネ一七章初め)。父なる神様の栄光を現わすことを主イエスはご自身の使命としておられたことが解かります。

キリストは肉に苦しみをお受けになったのです。自分がこれから十字架に架かることが人間の罪の贖いとなり、万民の礼拝が実現する。「栄光、神に在れ」が終末には完全に実現し、栄光が現れる。この父なる神様の御心の成就を見据えておられた。神の栄光が現れる。私たちから見れば救いが成就する。この希望を主イエスもご自分の希望としてお持ちになりました。その実現を希望として持ち、そこに向かっての救いの道筋を心構えとしてお持ちになった。それでこそ、主は肉に苦しみをお受けになり耐え忍ぶことがお出来になりました。

だとすれば、主イエスと同じ心構えで武装すべき私たち、時に苦しみを伴う人生も、その向こう側にある救い=万民の礼拝の中に自分もいる希望、これをしっかりと持つことによって、肉における残りの生涯を生きるようになる訳です。

因みに、肉における残りの生涯と聞くと、年配者の言葉にも聞こえますが、洗礼を受けたらこれから如何に生きるか、若くても、若いからこそ、考えるでしょう。年配であれ若者であれ、信仰者としての同じ課題を持っている。生涯をどう生きるか、思いを深く馳せるべきであります。

もし、これがどうでも良いということになると、以前の生き方のままになります。それが三節です。かつてあなた方は、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていた…。「かつてあなた方は」と言ってくれていますが、それなら今の私たち信仰者は? そういった偶像礼拝から全て自由になって大丈夫ですと言い得るのか。五十歩百歩というのが正直な所でしょうか? 大丈夫ですと言い切れるのは終末になってからです。その前に言うとしたら、却って傲慢です。

ただ四節には、あの者たちは、もはやあなた方がそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのですとありますから、信仰を持たなかった当時の「あの人たち」から見て、キリスト教徒を、不審に思いそしる程に、ある品位を持つようになっていたようです。キリスト教徒としての品位を、自分なりに備えているそういう存在であれと、ペトロ書は語っている訳です。

そして不審に思い、そしる人たちの事について五節では、彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。が、それはキリスト教徒でない彼らだけでなく、私たちも同じ。最後は申し開きをしなければなりません。御前で大丈夫ですと言い切れる人はいないからです。私たちは誘惑に弱い。生きるその瞬間毎に、恰も神がいないかの如くに、神様を忘れ、御前に立つことなく生きてしまう。受洗後の今の私たちも引きずっている。だからこそ、日頃から、主イエスと同じ心構えが必要だし、人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きる姿勢、結果としてどこまで出来るかはともかく、その姿勢は必要です。

裁き主の前に申し開きをしなければならない。この言葉だけ読むと、地獄にでも落とされるような何か恐ろしい思いを持つかもしれません。ここで申命記の言葉を…。主は荒れ野で彼を見い出し、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分の瞳のように守られた。鷲が巣を揺り動かし、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に乗せて運ぶように、ただ主のみ、その民を導き、外国の神は彼と共にいなかった。申し開きすべき私たちは、いわば荒れ野にいるように、不毛の地にいるように、絶えず誘惑に取り囲まれています。鷲の話です。崖の割れ目に巣を作る。親鳥はその巣を揺り動かし、巣立ちを促す。巣が揺り動かされて巣から落っこちていくかもしれない。その時に、雛の上を飛びかけり、羽を広げて捕らえ、翼に載せて運ぶ。落ちていく雛のような私たち、そんな私たちを、見出し、ご自分の瞳のように守り、そして天の御国に運んで下さるように翼に載せて運んで下さる。私たちはこの翼の上に載せられて御国に導かれる。そういう主のみ前に守られる中、私たちは申し開きをする。恐ろしい主の前に立たされるのではない。その後地獄に落とされる、そういう話ではない。

申し開きは、言い訳でありません。乱行に加わっていた自分について、御免なさいと言うことです。悔い改めて、このような私を瞳のように守って下さるあなたこそ主なる神様です、外国の神様にはそんな神様はありませんでした、あなただけです、と告白し礼拝をささげる。そうやって、審きの後、終末における万民・万物の礼拝が成り立ち、繰り広げられる。この光景、詩編の終わりはこう締めくくる。「息あるものは、こぞって主を賛美せよ。ハレルヤ」。これが詩編の夢です。これを神様も夢見ておられる。万民の礼拝に私たちも加えられている。これが私たちの希望です。

今日、改めて自らに問いかけたい。人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きますか。そう生きていきましょうと聖書は促しています。

それは第一に何よりもまず、最終的夢に従って、礼拝をささげることです。外国や日本の神々ではなく、まことの神を礼拝します。地上の礼拝ですから、まだ万民の礼拝にはなっていませんが、私たちの教会の礼拝で、私たちを、見出し、ご自分の瞳のように守り、翼に載せて運んで下さる主イエスと出会う。日曜日、教会に集って礼拝に出席するのだ、教会に集うのだ、そう心構えを持つ。 そしてその心構えが、教会に集うために一週間を整えていく生活を形成していく力にもなります。礼拝に向かう生活、礼拝から始まる日々の生活となります。もちろん生計を立てていかねばなりません。仕事があり、介護があり、病になったり…。止むを得ないことが色々あって礼拝に出席できないことはあるでしょう。でも、だから礼拝は出席してもしなくても良いと開き直って良いはずはありません。出席できない時には(牧師にというよりは)神様にその旨、報告出来れば良いのです。

残りの生涯をささげる。第二にそれは、伝道のために生きること。礼拝だけささげていれば良い訳ではなく、異教社会ですから伝道は必要です。主イエスも大伝道命令をしておられます。

もっとも路傍伝道のような何か特別なことではありません。礼拝をささげ主イエスに出会い恵みの中を生きたら、月曜日からの生活とその姿が変化するはず。それは伝道に生きていることです。「あなただけ恵みに包まれてずるい」と周囲の人たちがそしりたくなる位になれば大したものです。「あなたは恵みの中に希望をもって生きていますね、良いですね」と私たちの姿を見て教会に行ってみたいと思ってもらえたら、素晴らしいものです。礼拝の恵みを携え恵みの中に歩み、伝道になると自覚を以て生きる私たちにならせて戴きたい。

それから直接に福音を伝えていく営みもあります。そして教会にお招きする。広く言えばキリスト教教育活動です。また教会に少し遠ざかっている教会の人たちへの関わりなら牧会と言っても良いでしょう。いずれにせよ教会にお招きし、福音の恵みが伝わるようにする伝道、そのために生涯をささげる。自分なりの仕方で結構です。

残りの生涯をささげる。第三点目。それは隣人愛に生きる事、奉仕と言ってもいい。

因みに愛と言えば、人間愛。自分が相手を思って相手に関わることです。一般の人間関係でも言えることです。それから兄弟愛、自分も相手も共に主イエスに愛されていることを知っている者同士の関わりです。主イエスの愛を共有する信仰者同士の交わりです。牧会も兄弟愛の一形態です。

そして隣人愛、相手が信じていなくても、その人を神様は愛し瞳のように守っておられる、と自分が信じて関わることです。この愛に生きることが証しとなり、相手の人が主イエスの愛と恵みに触れます。隣人愛に生きる事は、伝道が目的ではないですが、これも間接的にあるいは結果的に伝道になり、教会に集って歩んでくれれば幸いです。

以上のような、礼拝から展開する教育、牧会、奉仕、それらが直接間接に伝道となります。これらの営みが私たちに、また教会に求められています。私たちはキリスト教徒としての残りの生涯を、万民の礼拝の希望を抱きながら、神の御心に従って自覚的に生きる。その心構え、それは、私たちに注がれた愛と希望に基づいています。このキリストに聖餐において出会い、恵みを味わいます。

トップページ
教会学校
各部会案内
婦人会 壮年会 青年会 シャロンの会 カレブの会