「内なる装い」

森田恭一郎牧師

(ペトロⅠ 3・1-7)

先週、関西は台風、北海道は地震に見舞われました。被害者にはどうしようも出来ない、その意味では不条理です。神様どうして…と神様に訴えてもいい。でもこれは神様のせいでも罰でもない。備えが足りなかった所は人間の責任ですが、防げないままに被害を被ったことについて、神様は、大変だったと、亡くなられた方には悲しいことだと、生きていく人には応援するからねと、そういう思いで私たちを見ておられると信じましょう。

ペトロ書を読み進めています。二章一三節以下では皇帝や総督に服従しなさい、一八節以下では召使に対して主人に従いなさい、今日の個所では妻に対して夫に従いなさいと語ります。これも不条理です。現代人の私たちには違和感を覚えさせますが、当時の逆らうことのできない日常の現実の社会状況の中で、キリスト者として生きることを問いかけています。

政治の支配者に虐げられ、主人にこき使われ、夫に大事にされない、それが普通の状況であった中で、虐げられているから神なんか信じられないと教会に来ないのではなく礼拝をささげる。その姿をペトロ書は祝福しています。そして教会として牧会的に支えようとしています。そしてこの生活の中で御心を思い起こし、主の足跡を見出し、主を模範として生きていく、そこに慰めと勇気を戴く。このことに思いを向けさせてくれます。

また、キリストも同じように、虐げられ、苦難を負い、労苦を耐え忍ばれた。そしてこの主が、あなたと共におられる。そう主を思い起こさせ、私たちを慰めます。そうやって救いが自分に伝わり、また服従する姿を以て救いが相手に伝わっていく。このことを願いながら、キリスト教徒が社会の中で、弱い立場に置かれながらも生きていく。そこで文句を言いながらではなく、現実を受けとめ尚、健やかに生きるようにと、人々に勧めている。不自由な服従の生活を勧めているようでありつつ、実は自由を生きるようにと語っています。

今日は夫婦生活の話。妻に対する言葉が一節から六節、夫に対する言葉が七節だけ。これだけでも何か不公平ではないかと、憤慨したくなりますね。でもこれは、夫と妻の上下道徳が常識である中で、妻に対する慰めを一生懸命語り、夫には慰めをそれ程語る必要はない。その分、妻への言葉が長くなる。よく読むと、夫婦は上下ではなく対等であると述べていることに気付きます。

二節以下、夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなた方の純真な生活を見るからです。ここに現れる妻の実存は、夫の下で辛い思いをして憤慨するようなものではなく、神を畏れている実存です。そして神を畏れる所から、妻は無言の行いによって信仰を生きている。その姿を夫に見せつけるのではない、信仰や実存の本質が日常生活の姿に滲み出てくる。その妻の純真な生活は夫に見えてくる訳です。これらの事を通して、御言葉を信じない夫を信仰へと導くことになるとペトロ書は確信している。

三節、あなた方の装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。ここに書かれてある通りにするべきでしょうか。今の時代、おしゃれも外面的な飾りもしてはいけないなどとは言えません。自分を飾る自由は認められるべきもの、またおしゃれをして元気になることもあるでしょう。でも、外面的な所で表しているものがあなた方の本質ではないですよね、と言っているようです。皆さん方の美しさは、内面的な装いから滲み出てくる。本当のあなたらしさはどういう所にあるのか、と今日なお、問うています。

五節、その昔、神に望みを託した聖なる婦人たちも、このように装って自分の夫に従いました。聖書に登場する信仰の婦人たち、どの時代も、妻は夫に従わねばならなかった。でもそのような中で彼女たちがどのように歩み、どのように装って夫に従ったのか。その具体例として六節以下、たとえばサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しました。あなた方も、善を行い、また何事も恐れないなら、サラの娘となるのです。

夫アブラハムは七五歳の時、召命を受け、更に子孫と土地が与えられると約束されたのですが、その後二四年経っても子供は与えられない。そのような時の出来事としての創世記一八章九節以下の箇所を読みます。ここで神の人がアブラハム夫妻に現れます。「私は来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、その頃には、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」。サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうに無くなっていた。サラは密かに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。ここでサラが密かに笑うのは、それは良かったと喜ぶ笑いではない。そんな事あるかとあざ笑う笑いです。ペトロ書は何故こんな箇所を指し示すのだろうか。それは一八章一二節で、主人も年老いているのに、と夫アブラハムを主人と呼んでいる、ここを指してサラは、アブラハムを主人と呼んで、彼に服従しましたと言う。

ペトロ書はサラを引用する。何故、アダムの妻、エバではないのか。エバこそが命という意味の名で、命を共に受け継ぐ者であるのに…。エバは蛇の誘惑に負けてアダム共々死を共に受け継いでしまった。あるいはソロモンは? 主イエスが「ソロモンの栄華」と言われた程の旧約時代いちばん華やかな王様でしたが、そのソロモンの妻も例に出さない。ソロモンの妻は異教の宗教をイスラエルの中に持ち込んだ。どちらも主なる神に従っていません。サラだって密かに笑って、神様を馬鹿にした。であるのに何故、神に望みを託した聖なる婦人たちの一人に加えられるのか。

神の人が言います。主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今頃、私はここに戻ってくる。その頃、サラには必ず男の子が生まれている」。ある説教集にこう語っています。「サラはそこで、この神の言葉を聞いて、主を畏れることを覚えた。そして神に望みを託すことを知った。『望み無き時に望みを以て生きた』と後にパウロが書いている。夫アブラハムと共に神に寄せる望みを分かち合うことが出来た」。

サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「私は笑いませんでした」。この時のサラ、受胎告知の時のマリアと同じ様な気持であったのではないか。「私は主のはしためです。お言葉通りこの身に成りますように」。サラはもう、あざ笑うことはしません。主の天使は「いや、あなたは確かに笑った」。水掛け論議をしているのではありません。天使はサラのあざ笑いを忘れない、しかしこの罪をキリストが贖って下さることを見通して、主の御業があなたに成ると宣言しておられます。

こう言われたサラは、本当に恐ろしくなりました。自分のような者に神が現れ、子どもを授かる。主の業が起こる。そしてこの恐るべき事柄を通して主を畏れることを覚えました。私たちもこの信仰のセンスを失ってはいけないですね。サラは、主の御業を恵みとして、今度は馬鹿にせず受け止めようと思いました。自分の浅はかな笑いを「笑いません」と打ち消しながら、主を畏れる新たな思いで主のみ前に立ちます。それで、神に望みを託した聖なる婦人の一人に加えられます。

七節、今度は夫。同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。弱さ、命の恵みを受け継ぐ。これを妊娠・出産時の守ってもらうしかない女性の弱い姿や新しい命の育みを語っているとする理解もあります。また、母にならなくても生かされていること自体を語っていると考えることも出来ます。その所で夫に求められるのは、妻を尊敬すること。妻に服従を求めているようで、実は対等の関係です。尊敬しつつ生活を共にし、共に受け継ぐ。「共に」という点で対等、望みを分かち合うのも対等です。

当時の夫婦関係は上下関係でした。日本も戦争中まで上下の道徳律にありました。今なお引きずっているかもしれません。この現実があっても、あなた方夫婦は「共に」であり、対等なのだと語っている。この社会で、この表現は決して当たり前ではなかったはずです。そして終わりの所、そうすれば、あなた方の祈りが妨げられることはありません。妻を奴隷のようにしながら、あるいは喧嘩していたら、神様に共に祈れないですね。妻は夫に従うべき、当時の一般的家庭訓を受け入れながら、実は打ち壊すようにして対等を打ち立てる。

最後に一言、エフェソ書(五・三二)は、夫婦は、キリストが教会を愛し、教会がキリストに愛される関係を現わしていると語る。夫婦は二人の関係でありつつ、そこにキリストの神秘が伴う。この神秘があるからこそ、妻は夫に従い、夫は妻を尊敬します。このエフェソ書の語る事柄を、私たちはペトロ書と共に思い起こして良いと思います。

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