「自由を生きる、神の僕」

森田恭一郎牧師

(ペトロⅠ 2・13-17)

説教題を「自由を生きる、神の僕」としました。一六節の自由な人として生活しなさい。神の僕として行動しなさいから説教題としたものです。

今日は、自由を生きるについて考えてみます。

東京三鷹の国際基督教大学行きの路線バスに乗って、終点に近づくと、大学のPRの車内放送が流れます。「自由に学ぶ、自由を学ぶ、自由のために学ぶ、国際基督教大学」というのです。

まず、自由に生きるについて。それは全てものから解き放たれて何にも束縛されずに自由に生きるということです。悪く言うと、我がまま勝手放題に生きる、そのような響きもあります。

次に、自由のために生きる。それは自由の獲得や維持のために戦うという響きがあります。日本国憲法第一二条を思い起こします。「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」。更に第九七条も。「この憲法が日本国民に保証する基本的人権は、人類の多年に亘る自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、犯すことの出来ない永久の権利として信託されたものである」。自由は、放っておいて自然に実現するものではありません。人類の多年に亘る自由獲得の努力、また不断の努力による保持があって自由のもたらす恵みを戴くことが出来る。自由は、自然世界ではなく、人間社会の事柄ですから、自覚して自由のために獲得・保持していくことが必要です。

それでは今日の主題の自由を生きるとは…。ペトロ書は一六節で、自由な人として生活しなさい。その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさいと語る。自由の用い方を問うている。ルターが『キリスト者の自由』の著作の冒頭に有名な言葉を書き残しています。まず「キリスト者は全ての者の上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない」。何人にも従属しない。自由人になって陥りやすいのは、自分の方が上だと相手を馬鹿にして思いあがることです。自由を以てこの悪事を誤魔化してはいけません。ですからルターは続けます。「キリスト者は全ての者に奉仕する僕であって、何人にも従属する」。僕として何人にも従属することと、先の君主として何人にも従属しないこととが両立しています。これが、これが真実に自由を生きる在り方です。

それで神の僕として生きる具体的な在り方を語ります。一三節以下、主のために、全て人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。自由を生きることを象徴的に、皇帝に服従し従う在り方を以て表現します。私たちはこういう聖句に戸惑います。戦前の天皇を元首とする大日本帝国がしたことは、諸外国を侵略する戦争に国民を強制し服従させたことでした。あれに服従して良かったのかと戸惑う。でも、あれはけしからんと後から批判するのは簡単。思えばどの時代であっても国家というのは国民に服従を強いる側面を持つ。故に国家が暴走し間違ったことで国民を服従させないよう、憲法が国民の自由を保障することが、本当に大事です。

ペトロ書も時の為政者が愚かな者たちであることを承知はしています。一五節に、善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからですとある通りです。それで一四節、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるためにと、正義を実現する皇帝でなければならない旨を記します。ペトロ書は、愚かな皇帝がいることを踏まえつつも、ローマ帝国はそれまでの地中海地域の歴史の中では最も平和を実現していたので、帝国に服従する意味があると考えた。

だから、やみくもに従うのではなく主のために、全て人間の立てた制度に従いなさいと言う。主のためにとは、服従によって国を良くしていく、服従による国の聖化を言っているようです。今日私たちも、例えば国家権力に服従し税金を納めつつ、その税金が正当な仕方で善なることに用いられるようにしていくことが、国を聖化していく国民の義務であり権利であるのと同じです。

また服従を勧めるのは、当時の教会は小さな群れでした。既成の社会秩序に服従して、社会の中で生き抜いていく努力をしたとも言えます。市民としての証しを立てていかねばならない。表立って、皇帝は異教徒だからけしからんなどと言えば、途端に村八分や迫害に遭うことになるからです。

エレミヤ書も、その時代はイスラエルの国がなくなり人々は捕囚の身になっている時代でしたが、その人々に神様が呼びかける。二九章四節以下「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。私は、エルサレムからバビロンへ捕囚として送った全ての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻を娶り、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし減らしてはならない」。敵国バビロニアに反抗せよ、テロを仕掛けよなどとは一切言わない。また反対に、諦めて成るようになれと投げ出すのでもない。むしろ「私が、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」と主は言われる。

これは敢えて言えば、バビロニアに服従する気持ちを持てる程に、精神が自由でないとなかなか出来ないことです。人々は捕囚地で、一見バビロニアの奴隷でありながら、神様は人々に主の僕として自由を生きることをお求めになりました。

皆さんは、ご自分の事を神様の僕と表現なさる方がどの位いらっしゃるでしょうか。今日、教会でこの言い方を耳にすることは殆どなくなったような気がします。私などは洗礼を受けた最初からこの表現で自分を語って来なかった。自分が主の僕、奴隷であるということが身についているだろうか。「主イエス・キリスト」と告白するなら、それは自動的に「私は、主の奴隷」と告白していることになるはずなのですが、その意識が弱いのではないか。自由に生きるだけで、自由を生きることを忘れてしまう。そうはなりたくありません。

自由を生きる生き方について最後に一七節はこう語ります。全ての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。教会の中にあっては神を畏れ兄弟を愛し、社会生活にあっては全ての人を敬い皇帝を敬います。神を畏れ礼拝をささげる者として、隣人に対しては尊敬と愛を以て仕える僕です。それが自由人として生きる在り方です。

僕という用語の女性形ははしため。マリアが受胎告知を受けた時に応答した言葉、それは「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」。僕も、はしためも奴隷です。もっともここでは、神の僕ですから主人は神様。マリアは主の権威を認めている。時折強いられた恩寵などと言いますが、命令されて従う。命令ですから自由に振る舞うのではありません。でもマリアは無理やりさせられているのでも嫌々従うのでもない。はしためとしてマリアは自ら従っている点で、ご命令に従う自由を生きている。

マリアが「私は主のはしためです」と何故、自ら応答出来るのか。彼女は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と天使から告げられたのがヒント。私たちは主が共にの言葉から、一人ぼっちにされず御手に守られるといった何か暖かさを思い描きますが、それだけではない。主体的に自由に、そして自由を生きる、主に従っていく事へと、権威を以て招く随分チャレンジングな言葉です。それでマリアは「お言葉通りこの身に成りますように」と応答出来たのです。

先程、国家が暴走しないように、憲法が国民の自由を保障することが大事だと申しました。思えば、国家だけではない。私たちもまた相手を見下して上に立とうとする。だから暴走しないように、神の僕として生きる姿勢を保持しないといけない。そのために必要な憲法にあたるものは何なのか…。

イザヤ書五九章の初めにこういう聖句があります。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちの間を隔てているのだ」。主の御手が、私たちを神の僕として隣人に仕える自由人へ導き支えて下さると信じます。

ある説教集にこういう話。「宇宙飛行士が船外活動する時、重力がないので上も下もない、全く自由。宇宙飛行士はしかし、その時、宇宙船からのアームにしっかり掴まえてもらって固定されている。それに固定されないと、人間は自由とは言え何も出来ない…。神様の伸ばされた手に結ばれたその愛の権威の下でこそ、人間は真に自由になる。クリスマスは宇宙的なドラマで、上からの権威的な出来事、しかも差し伸べられた神の長い御手の出来事なのだ」。マリアは主の恵みの御手に捉えられた。それで「私は主のはしためです」と応答できた。クリスマスだけでなくイースターも。主イエスが「娘よ、起きなさい」と呼びかけられた時、主は象徴的に娘の手を取って娘を起こして下さった。神の上からの権威、それは主イエスが十字架において、最も下に立って下さったことによって明らかになった愛の権威です。この権威の下で、私たちは神の僕とされ自由を生きるのです。

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