「聖なる旅人」

森田恭一郎牧師

(ペトロⅠ 2・9-12)

前回は、二章五節にありますように、あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさいと私たちが生ける石であることを学びました。今日は、私たちが祭司であることを学びます。五節、そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的な犠牲を、イエス・キリストを通して献げなさい。

旧約時代の祭司のした事は、まず神殿で動物の犠牲をささげる事でした。新約時代の私たちが祭司であるなら、やはり献げます。それで献げるものは神に喜ばれる霊的な犠牲、それは私たち自身、また私たちの人生と生活です。

出エジプト記でも、紅海の奇跡を想起した後にあなたたちは私の民の間にあって、私の宝となる。世界は私のものである。あなたたちは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる。周囲は異教徒たち。その間にあってイスラエルの人たちが、宝、祭司の王国とされました。彼らが立派だったからではありません。ひたすら神の愛の故です。

私たちが祭司である。このことはⅠペトロ書の二章九節でも語っています。しかし、あなた方は、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。初代キリスト教徒たちも、異教徒たちに囲まれていました。ヨーロッパが後にキリスト教世界になる遙か以前の事です。実に小さな群に過ぎないその彼らが選ばれました。神の愛の故に恵みを受けてです。自分たちが偉いからではない。選ばれていない者たちと比較して自分たちは選ばれているのだ、と誇ることのないため、まして、神様の前で自分を誇ることは出来ないはずです。それで立派でない者が選ばれた。聖書は旧約から新約に至るまで、ずっとそう語る。

何のために祭司とされ神のものとなったのか。神様の側に、神様が私たちに抱いておられる目標があるからです。九節続けて、それは、あなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなた方が広く伝えるためなのです。暗闇から光の中へと招き入れて下さった方の力ある業とは、キリストの十字架の贖いです。これから将来に向けて、贖罪の御業を告げ広める。広く伝えるという私たちの役割、使命を語っています。

広く伝えるという言葉から、今、まだ選ばれていない人は伝えられていく存在であると分かります。今異教徒だから永遠の行く末は滅びだということではない。思えば、自分自身が元とは言えば異教徒であったのに、選ばれたのですから。

広く伝える伝え方は色々あります。まず何よりも、私たちが集って礼拝をささげること。礼拝ですから、そこでキリストの愛と御業を想起するための説教と聖餐を以て宣べ伝えます。そこで神様の臨在に触れる。神様はおられる。神様と交わる訳です。そして感謝と喜びの内に賛美をささげる。

そして次に、私たち同士で、感謝と喜びと賛美を分かち合う、いわば主にある交わりがあります。交わりとは、ただ仲がいいということではない。礼拝で想起したキリストの愛と御業の出来事、暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、聖書の言葉を思い起こして、お互いに分かち合い宣べ伝え合います。

私たちも異教社会にいるのですから、そこで生活する労苦を語り、慰め励まし合います。また、人間の弱さや罪深さを引きずって苦しい思いをしている時に、その欠けた所を責めるのではなく補い合い、キリストが贖って下さったと恵みを確認し合います。罪や欠けがあるとしても祭司なのですから執り成し合います。ここに祭司の役割がある。

これは牧師だけがすることではありません。教会員みんなが祭司の役割を担います。二〇世紀前半までカトリック教会は神父だけが祭司の役割を負うと考えていましたが、その後変化して、プロテスタント教会同様、みんなが祭司であると考えるようになりました。そう考える聖書的根拠の代表的な個所の一つが、ペトロ書のこの聖句です。

主の御業をホセア書から引用して語ります。あなた方は、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。かつて から 今、自然の成り行きに任せていれば成るのではありません。かつて と 今 の間に、キリストの十字架の贖いの救い主の御業があります。それ故に今は、神の民とされ憐れみを受けているこの姿を喜び合う。礼拝で御業を想起し味わい感謝を献げる、神様と交わる礼拝があり、それと、礼拝での恵みを喜びと感謝の内に執り成し合う私たち相互の交わりがあります。ここに教会の姿があります。

礼拝と相互の交わり。こういう教会の姿が正しく広く伝われば、当時の異教世界にあって、この姿そのものが魅力的であり、伝える働きになったでしょう。今日の社会も、成績に基づく、どれだけ役立ったかという価値観に基づいて人間を評価することが多いのですが、教会は神に愛された人格と尊厳が人にはあると考える。この教会の在り方は社会にあっては、魅力的なはずです。こういう教会員の姿が広まっていく、それは主の御業を広く伝える一翼になるでしょう。

一一節以下。通常、一〇節までと一一節からを区切りますが、今日は一体のものとして読みます。元々、一〇節と一一節の間の小見出しはなかった。今日は、一〇節までの、私たちが祭司だということを一一節以下で展開していると理解してみます。

小見出しの言葉を利用するなら、神の僕として生きるというのは、祭司として生きることです。祭司は、神と人間の間にあって、赦してやって下さいと、罪人を神様に執り成しする務めです。キリスト者の私たちは、異教社会の中で周囲の人々を神様に執り成す役を負っている訳です。

執り成す執り成しの仕方は幾つかあります。一つは、キリストの救いの御業を宣べ伝えて、あなた方も救いの御業の中にあるのですよ、と伝える。そして、今一つは、キリスト者として生きる証しの生活によって御業を現していく。いずれも祭司の務めです。このことを一一節以下は語っています。

教会の魅力をその中だけに留めずに、外に広く伝わっていくようにする。そのためには、私たちの姿が見えてくることが必要です。一一節途中からいわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。異教徒、未信者は、教会の教えそのものをそれ程聞こうとはしません。それよりも、私たちの姿、生活のあり様、倫理部分を注目します。魂に戦いを挑む肉の欲。ある註解書は肉の欲の言葉を文字通りに狭く理解しないようにと注意を促します。魂も霊魂というよりは、自分の存在と生活の在り方全体のことです。

立派に生活というのも、倫理的行為でもありますが、それは結果として外面に現れて見えてくる行為です。より大切なことは、私たちの周囲の社会の風習や価値観に対応しつつも、世の中の無意味な悪い風習に巻き込まれ

ず、流されずに、自分らしく生きることです。それが結果的に、天の平安を知る安らかさと微笑みに生きる姿になって現れてくる。その在り方が私たちの生活です。

旅人であり、仮住まいです。それ故に、社会の中ではなかなか住人として受け入れてもらえない。悪人呼ばわりされることだってある。でもそれは、旅人である私たちからみれば、旅の行く先が他の所にあるということです。御国の世界、天の故郷(ヘブライ一一・一六参照)、神様の臨在と、揺るぐことのない愛を知っているということです。信じることが出来る。この魅力を自覚する私たちは、この地上に在って仮住まいの聖なる旅人です。

広く伝えた結果はどうなるか。注目したいのは一二節後半、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなた方を悪人呼ばわりしてはいても、あなた方の立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。異教徒の人たちが最終的には神をあがめるようになる! 私たちは祭司です。祭司として執り成します。彼らは異教徒であっても、神様が最後の訪れの日には彼らを聖なる者として下さる。私たちがそう信じて、そうなりますようにと執り成します。

当教会の今年度活動目標に「真摯な礼拝の姿、日常生活での信仰者である姿が、伝道になることの自覚」を《伝道》の項目として掲げました。その中に「家族や私たちが接する方たちは『聖なる者』という意識を持とう」と文章を記しました。周囲の人たちが、私たちの行いをよく見て、いずれ神をあがめるようになる、私たちが執り成す周囲の人たちはそういう聖なる人たちです。

それを信じて、執り成して広く宣べ伝えていきます。この活動目標の言葉を折に触れて思い起こして戴きたいと願います。周囲の人たちを異教徒としてよりも聖なる者と信じて見る。そうすれば、私たちの周囲の人たちに対する、私たちの心根や関わりの質がおのずと変わってくるに違いありません。私たちのこういう伝道の在り方が祝福されますように祈るものです。

トップページ
教会学校
各部会案内
婦人会 壮年会 青年会 シャロンの会 カレブの会