「味わい知った主の恵み」

森田恭一郎牧師

(ペトロⅠ 2・1-3)

あなた方は、主が恵み深い方だということを味わいました。味わう。主の恵み、あるいは、主の恵み深い方であることを味わうとは?

この言葉から、食べ物や飲み物を味わうと連想しますが、すぐ飲み込んでしまわずに噛みしめるようにして味わいます。主が恵み深いというのは、味わって、本当にそうだと身に染みてこそ解かることです。とは言え、終末までの地上の人生で、主が恵み深い方であることを、どのようにして、どのような時に味わうのでしょうか。

二節に生まれたばかりの乳飲み子のようにとあります。乳飲み子がゴックン、ゴックンと母親の乳房に吸い付いて飲んでいく様子は、乳を慕い求めるその一途さを思わずにはいられません。母親の腕に抱かれて、母親と眼差しを合わせながら一生懸命飲んでいる姿は、母親に信頼しきって、乳と共に母親の愛情をも味わっている姿です。

その乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求め、私たちも主なる神様に信頼しきって、神の愛を味わいます。私たちも、混じりけのない霊の乳を飲んで成長し、救われるようになります。

さて、旧約聖書詩編五一篇、ダビデがバト・シェバの夫を殺して彼女を自分の妻にしてしまった悪事を指摘されて、罪を悔い改めた時の詩です。

今日、このダビデの詩を選びましたのは、夏期学校の主題が「神の約束~ダビデ~」だったからです。台風で中止になりましたが、出席予定だった中学生もおられるので、開会礼拝でお話しする予定だったことの一部を話しておきます。旧約から神の約束を学ぶのは、旧約聖書に登場する人物が、救い主が来たりたもう神様の約束を証しするその生涯から学ぶということです。そのために選ばれたのがイスラエルの民です。

アブラハム、祝福の源になりなさいと言われました。その彼の生涯は、祝福の源であるイエス・キリストを指し示した生涯でありました。

モーセ、十戒を授かりましたが、イエス・キリストは十戒を廃するためにではなく成就するために来て下さいました。

ダビデ、彼はサムエルを通して神様の御業へと召されるとき羊飼いでした。彼は、私たちの羊飼い、大牧者イエス・キリストを証しします。またダビデはイスラエルの王になります。そのような仕方で私たちの王であられるイエス・キリストを証ししています。しかしもう一つ、ダビデは詩編五一篇で自分の罪を指摘されて悔い改める詩を残さざるを得なかった。ダビデと雖もまた罪人でしかなかった。そのダビデが証した救い主は、その罪を贖い赦したもうイエス・キリストでした。

本題に戻りますが、この詩篇五一篇一四節に、御救いの喜びを再び私に味わわせ…という言葉があります。この味わうは口語訳聖書では、あなたの救いの喜びを私に返しと訳しています。他の聖書では、あなたの救いの喜びを私に戻しと訳しています。必ずしも味わうと訳していない。

再び味わう。こういうことありませんか。あのお店で食べたあの食事、もう一度食べたい。海外勤務や留学をした人は、あの梅干しのお握りとお味噌汁が欲しい、お茶漬けが食べたい。一度口にして知ったあの味をもう一度味わいたい。初めて美味しいと味わう一度目の味わいとは異なる味わいがありそうです。この再び味わわせという訳は、なかなか味のある訳ですね。

信仰の事柄として考えると、洗礼を受けた時の喜びがあります。それは初めての味わいです。その後の信仰者としての歩みが始まりますが、信仰者と言っても地上では罪人です。その中で御救いの喜びを再び私に味わわせて下さいと祈る。二度目に口にする味わいがあります。霊の乳を慕い求めるという表現も、また鹿が谷川を慕いあえぐように、我が魂もあなたを慕いあえぐ(口語訳)の表現も、二度目以降の切実さが滲み出ています。

そして詩編五一篇でダビデは御救いの喜びを味わいたいと、再び慕い求めました。それはどのような時かといいますと、罪を犯して悔い改める時でした。主の恵みは、そのような時に味わえる。

詩編をもう一か所、招詞の所で読んで戴きました三四篇九節。味わい、見よ、主の恵み深さを。この聖句は、聖餐式の時に読まれる司式者も多いようです。なるほど、聖餐式の時に私たちは主の恵み深さを文字通り味わっていますね。大切なことです。霊の乳を慕い求め味わうように、聖餐式で主のお体と御血潮を味わう。この詩篇三四篇そのものは、聖餐式が未だなかった時代です。どういう時の詩かというと、表題にこれもダビデの詩とあります。ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときにとありますから、順調な時ではないことは明らかです。

この詩篇は、貧しい者(口語訳では苦しむ者)が苦難を背景に助けを必要とする経験を詩っています。そして、九節後半、いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。苦難の時に、御もとに身を寄せて主の恵み深さを味わう。人生が順調だから主の恵み深さを味わうとは限らない。むしろ逆境においてこそです。それは幸いだと語ります。

それから、この恵み深さの味わいを忘れるとどうなるか。詩編三四篇一四節、舌を悪から、唇を偽りの言葉から遠ざけ、悪を避け、善を行い、平和を尋ね求め、追い求めよとあります。悪、偽りの言葉が口をついて出てくる。善を行わず、平和を求めなくなる。この詩篇の語ることを、ペトロ書も同様に語っています。二章一節、悪意、偽り、偽善、妬み、悪口をみな捨て去ってと勧めます。主の恵み深さを味わってこそ、捨て去ることが出来る。主の恵み深い方であること、その恵み深さを味わっていないと、偽りや悪口といったものを自力で捨て去るのは難しい。何故なら地上では私たちは罪赦されても罪人、未完成であり続けるから。それで、つい悪口が口をついて出てくる。

主イエスはこう言われました。「いと高き方は(=父なる神)、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い(=恵み深い)。あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も憐れみ深い者となりなさい」(ルカ六・三五)。ただ憐れみ深い者になりなさい、と言っておられるのではありません。父に倣って、です。しかも、父なる神を、あるいは主イエスをモデルにしてただ倣うだけなら、自分の力で頑張ることになります。

ですから、父なる神が私たちに対して憐れみ深い方となって下さったことを味わうことが必要です。私たちも恩を知らない者であり悪人だった。そのような私たちを父なる神様はキリストによって憐れみ深くなられた。その恵み深さを体験し、その恵を受領することが必要です。その上で、憐れみ深い者となりなさいと勧められる。主の恵み深さを味わうことなしに、倣うことは出来ないのです。味わうことなしに起こったことは、主イエスを妬んだことです。罪人たちの中で主イエスだけが憐れみ深い者となっている。周りの者は、何だ、お前だけいい格好して、と主イエスを妬む。主イエスを十字架に追いやったのは、妬みの故です。

もし皆さん方が、少しでも悪意、偽り、偽善、妬み、悪口といったものを捨て去ることが出来ているとすれば、それは主の情け深さ=恵み深さを、その都度味わっているからです。パウロもこう言います。「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を作り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(エフェソ四・二九)。悪口を捨てるというのは、それを頑張ってやってみるというのではない。悪口を言う時のあの快感、そこから私たちは自由になれないからです。自分が立派になって悪口を言わないというのではなく、聞く人に恵みが与えられるようにと願えること! そのためにはまず自分が恵みに与り、恵みを味わっており、恵みにより自分自身が造り上げられること(エフェソ四・一六)が不可欠です。それでこそ聞く人に恵みが与えられるように語れます。

恵みを味わうのは、頭で理解するのとは異なり、噛みしめ幾度も味わい直す。捨て去るのは、捨て去る戦いよりも、むしろ恵みを噛みしめ味わうことに集中していく戦いです。そこに地上の生活における、救いに向けての成長があります。

どこで主の恵み深い方であることを味わうのか。それは礼拝での御言葉とそれこそ聖餐を通して、主の御もとに身を寄せることによってです。礼拝の時、苦難や苦悩を背負ったまま、身を寄せるようにして来て構わない。あのダビデのように、悔い改めるべき罪を抱えて引きずって来て構わない。それでこそ恵みを味わい、礼拝から日常生活に戻ってからは、偽善や偽りや妬みや悪口はしないで恵みを語る。礼拝で格好良くする必要はないでしょう。私たちはそれが逆転しないようにしたいと思います。礼拝においてこそ、罪人であることをあからさまにして構わない。主の恵みを味わうために集うのですから。主が恵み深い方であると心を向け、教会の頭であるキリストに向かって、地上において育まれ成長していくことになります。

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