「主の言葉は永遠に」

森田恭一郎牧師

(ペトロⅠ 1・22-25)

本日は当教会創立一一三周年記念の礼拝です。Ⅰペトロ書を読み始めて今日は一章の終わりの所です。ペトロ書はイザヤ書四〇章から引用して、これこそ、あなた方に福音として告げ知らされた言葉なのですと語ります。その言葉とは「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、全ては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」。

丁度このイザヤ書、ペトロ書の御言葉を刻んだ石碑が清教学園の一角に建っています。「草は枯れ、花は散る。されど、主の言葉はとこしえに残る。真一書」。清教学園中学校の初代校長の植田真一氏の達筆の書です。教会創立記念礼拝なので、私たちの教会の信仰の先達の一人、今日は植田氏の信仰に触れてみたい。植田氏はご自分の好きな聖句としてこの聖句を挙げ、こう一言、語っておられます。「その信仰に立つならば、どんな時代が来ても安泰であると思う」。植田氏は一八九六(明治二九)年生まれ。戦前、戦中、戦後の時代を生き抜いた方ですが、その時代は決して安泰であった訳ではなかったはずです。

だからこそ、植田真一氏が起草なさった清教学園設立趣意書にこう記されました。「戦後、人心の荒廃、道義の失墜も、所詮、神を恐れない悪魔的教育の、単なる遊戯の然らしむる所である。一人ひとりの生きた魂を、神に直結すること以外には到底日本を救う道はあり得ない…」。

「神に直結する」。神様に繋がるということですが、神に直結する人材を育てるために清教学園を設立するという趣意書です。私たち教会は尚更のこと、神に直結しなければならないと思わされます。どうやって? 御言葉に仕える信仰を通してイエス・キリストと出会うことによってです。

二五節に「主の言葉は永遠に変わることがない」とあります。これは色々訳し得る言葉で、永遠(とこしへに)に「保なり」。とこしえに「残る」、永遠に「立つ」。主イエスがヨハネ福音書で私に「繋がっていなさい」と仰ったあの言葉と同じ単語でもあります。主の言葉は永遠に繋がっている、主の言葉の方が、神様の方が私たちに繋がって下さったと読める訳です。先程の表現をお借りすれば、神様が直結しておられる。イエス・キリストをこの地上、歴史の中に遣わされて、主イエス・キリストが私たち人間に出会い、私たちの罪を負い、贖って下さったことによって私たちに直結します。ならば私たちは、神様にそのまま直結すれば良い。神様が既に直結しておられるのですから。

「草は枯れ、花は散る」。日本人の感性にぴったりと合う諸行無常の無常観を謳っている言葉のようにも読めます。時の権力者のその華やかさもまた全て、草の花のようだ。イザヤ書がこれを語るのは、イザヤ書四〇章が書かれた時代背景から来ます。バビロン捕囚です。バビロニアに負けて国は滅んだ。このままなら異教の地で自分たちも滅んでいく、と人々が信仰も失い絶望した。でも、時の権力者に虐げられても、その華やかさもまた全て草の花のようだ。その権力は長続きしない。そうイザヤは語ったとも読めます。

これは、花はしぼむと自然の成り行きを語っているのでもない。また、イスラエルの民は信仰者、時の権力者は異教徒、彼らはいずれ滅びるのだと、ただ権力者の華やかさの儚さを謳っているのでもない。むしろイザヤ書が語るのは、主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。日本では経験しない程の荒野の熱風が吹きつけ、そして一日を待たずして草はいとも簡単に枯れる。主の風が吹きつけ、イスラエルの民の罪が裁かれたのだ。この民は草に等しい。つまり自分たちのことです。自分たちの罪の故に、主の風が、主の熱い息が吹いた。このまま自分たちは異教の地で滅んでいく。人々は希望を失い、信仰を失った。

そのような中で御言葉を戴いた。「慰めよ、私の民を慰めよとあなたたちの神は言われる。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」(四〇・一)ここでイザヤが聞いたのは、自分たちが何を為すべきかではない、神様が御業を始められたのだということです。それは慰めの御業なのだ。イザヤはこれを聞いて、召命を受け、預言し始めました。ペトロ書簡も、これこそ、あなた方に福音として告げ知らされた言葉なのですと確信を以て語る。

植田真一氏は、A・D・ヘール宣教師から洗礼を受けた最後の人です。一九二二(大正一一)年七月、植田氏二六歳の時。A・D・ヘール宣教師を日本に派遣したカンバーランド長老教会は、アメリカの第二次信仰復興運動の中で、一八一〇年に組織された教会です。一八八三年の信仰告白ではウェストミンスター信仰告白の二重予定説を修正、①永遠の遺棄はない、②キリストはある一部の人のためにではなく全人類のために死なれた。③幼くて死んだ者は皆、また御霊の聖めによって救われている。④神の御霊は、キリストの成し遂げた贖罪の及ぶ範囲、すなわち全世界において働いている、と確認しました。そして宣教師を遣わし、ヘール宣教師も日本に派遣されました。

今日のカンバーランド長老教会は一九八四年に信仰告白を更に改訂して恵みの契約を重視しました。先ほど読みましたイザヤ書五九章二一節、「これは、私が彼らと結ぶ契約である」とそもそも聖書は契約を語っている。双務的ではない一方的な契約です。神様が、私はあなた方を救うのだ、愛するのだ、私の民とするのだ、と。

イザヤは続けて預言します。「主は言われる。あなたの上にある私の霊、あなたの口に置いた私の言葉は、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、あなたの子孫の子孫の口からも、今も、そしてとこしえに、離れることはない、と主は言われる」、こう主が約束して下さった。当教会はA・D・ヘール宣教師が主の福音の言葉を私たちに宣べ伝えて下さって以来同様に、私たちの信仰告白の言葉も口の中に置かれてきたと信じます。

創立記念礼拝なので歴史を振り返りたい所ですが短時間では出来ないので、この春、総会で採択した当教会の宣教基本方針を再確認したい。まず《当教会の歴史》の所、河内長野教会は、アメリカのカンバーランド長老教会から派遣されたA・D・ヘール師ら宣教師や家族が教育の業を通して福音の種を蒔いた事により礎が据えられた。一九五一年の教会総会において創立記念日を、A・D・ヘール師による大阪府知事宛の「長野講義所の設立申請書」の日付けである一九〇五年七月一八日とし採択した(以下略)。

私たちはこの歴史から始まって、信仰告白が子孫の口から告白されるようにと導かれています。それは、信仰を守っていく繰り返しささげる毎週の礼拝の営みがあってこそです。ペトロ書に戻り二三節に、あなた方は、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたとあります。新たに生まれた。まず思い起こすのは洗礼です。しかし私たちは一度洗礼を受ければもう大丈夫とは言えない弱さを抱えている。もちろん最終的な天国に招かれることについては心配の必要はありません。ただこの地上の営みにあっては、私たちの弱さの故に信仰から離れる誘惑に繰り返し襲われてしまいます。

だから二二節、あなた方は、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。隣人愛の倫理を形成する真理を受け入れた。この真理を弁えて初めて、深く愛し合うことが出来る。神様がキリストを遣わして私たちを救って下さったという信仰の真理。それを繰り返し確認し、それによって神に愛されている自分を肯定し、また相手を、あなたも神様に愛されている存在ですよと肯定し、愛し合うことが成り立っていく。新たに生まれたというのは、洗礼だけでなく自分の信仰の原点に立ち戻ることによって繰り返し新生することも含んでいるでありましょう。一九八四年のカンバーランド長老教会の信仰告白文に、新生について「新生とは、神が信仰者を再び新しくすることであり、ただ神の恵みに拠るものである」とあります。洗礼の時だけではないですね。繰り返し信仰に立ち戻って生きる訳です。そしてこの生き方は「栄光、神に在れ」の生き方になります。

宣教基本方針の記す《当教会の特質》の部分(その前半部分省略)。この教会に在って、我らの救いは主キリストの贖罪の恵みによるのであり、その恵みを信仰を通して受けとめ、その信仰によって「栄光、神に在れ」を目指して我らは生涯をささげていくのである。毎日の生活を「栄光、神に在れ」を目指して歩みます。

この教会の特質を踏まえ、基本方針は《当教会(員)の務め・使命》を記します。その実現のために当教会は、主日礼拝を重んじ、教会においてまた広く河南地域において、日本社会に向けた宣教(伝道・教育・奉仕)の御業に仕える(中略)。ここまでは教会の務めと使命、続いて教会員の務めと使命。従って当教会員は、礼拝に集い、み言による訓練の下に開かれた心をもって常に、宣教の御業に努めたい。礼拝をささげ愛の御業に努めます。

主の言葉は永遠に変わることはない。主の言葉は私たちに永遠に繋がっている。これを根拠に、私たちも繋がっていく。これこそあなた方に福音として告げ知らされた信仰の言葉なのです。

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