「天使たちも見たかったこと」

森田恭一郎牧師

(ペトロⅠ 1・10-12)

十節にこの救いについてはとあります。この救いは続けて恵みと語られ、更に福音となります。恵みとして与えられた救いを、福音として聴きとります。その内容は、主イエスの十字架による罪の贖い、復活による永遠の命の希望です。

ペトロ書によると、この救いをかつて預言者たちは探求し注意深く調べました。私たちは、主イエスの十字架と復活、贖罪と希望を、教会にあっては当然のこととして受けとめ、その事自体は幸いなことですが、そのことに言わば慣れっ子になり、福音、恵み、救いの感動が弱まっていないか。

私たちが旧約時代にいると仮定してみて下さい。救い主キリストが歴史の中にまだ登場しない。十字架と復活がまだ起こっていない。罪の贖いや罪の赦し、また永遠の命の確かさを誰が実現し、どのように実現して下さるのか、それが未だ見えてこない。こういう時代に生きているとしたら、私たちの心持はどうなるだろうか。これは新約時代であっても、自分が福音に触れる前の段階は同じような状況だったとも言えます。それで今はキリスト教会に繋がるようになった。教会に繋がらない訳にはいかなかった何かが私たちにもあった。

旧約の預言者たちは、救いの確かさが見えない中で、だから、十節後半、恵みのことを予め語った預言者たちも、救いについて探求し注意深く調べたのでした。彼らは、救いの実現を求めて、それが神様の御心であるに違いないと注意深く調べ探求しました。十一節、キリストの苦難とそれに続く栄光について予め、キリストの到来以前の旧約時代ですから予めです。キリストとありますが、まだあのイエス・キリストを見ていない。だから固有名詞のあのキリストというより、普通名詞で救い主と理解したい。救い主がおいでになり苦難とそれに続く栄光が起こるのだ、そう証しされた時に、預言者たちは誰を、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。主イエスも弟子たちに仰いました。「あなた方の見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなた方が見ているものを見たかったが、見ることが出来ず、あなた方が聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(ルカ一〇・二三節以下)。主イエスの人格、それに十字架と復活の御業を預言者たちは見られず聞けなかった。

そのことを預言者たちが何故気づき得たかというと一一節、自分たちの内におられるキリストの霊が証されたことによってです。日頃あまり聞かない表現です。預言者たちの内にキリストの霊がおられる。クリスマスの前ですからキリストは受肉していなくても、霊にあってはもう歴史の中に働いておられたと言っている訳です。霊は天上にあっても地上にあっても自由に働きます。そして預言者たちの内に自由に働いて、救いは確かだぞ、そのために救い主も来るぞ、と証しをしていた。預言者たちは証されたという経験をする。その証しを受けた聖霊体験と言ってもいいでしょう、何もしていない所に霊が働いて証の言葉を受けたということもあるでしょうが、どう理解したらいいでしょうか。

ダニエル書九章二〇節以下におきましても、ここでは直接キリストを尋ね求める個所ではありませんが、エルサレムの復興と再建についての、歴史における神の救いの御業が示される。どのような時に示されたのかというとこうしてなお訴え、祈り、私自身と私の民イスラエルの罪を告白し、という時です。人は歴史の中で罪を犯してしまう。自分の意に反して犯してしまう。預言者たち自身が、人間の罪と苦難の中にありました。不条理も渦巻いている。そういった中でダニエルは、私の神の聖なる山について、主なる私の神に嘆願し続けた。自分の罪を抱え、相手の罪にも直面しながら、不条理が渦巻き、歴史は思い通りには成っていかない。何故こういうことになるのか、と辛酸をなめ苦悩し嘆く中で、嘆願し続けた。こういう苦難の中で祈っている時に、神は生きて働いておられる確信を何らかの形で与えられる。

ペトロ書の言葉でいうとキリストの苦難とそれに続く栄光について予め証しされた。ただ霊が働いたというより、預言者たちの苦難が彼ら自身にキリストの苦難を指し示すものになったのでしょう。預言者自身の不条理や苦難の経験にキリストの霊の促しがあって、例えばイザヤ書五三章の苦難の僕のような文章を形成していく。そのように促されて彼らは、歴史の中に救い主キリストがいつの日か来られることを熱心に祈り求めました。

ペトロ書は、救いを尋ね求める旧約の預言者たちに言及する訳ですが、旧約の歴史があるのは何故か。旧約と新約の関係を表す言葉が幾つかあります。例えば預言と成就とか、待望と想起とか。旧約聖書があることの意味は何か。皆さんも旧約聖書をお読みになってつくづく思われること、それは、人間は、どうしようもなく罪深い、人の心は何にも増して捉えがたく病んでいるということでしょう。もちろん新約聖書でも解るのですが、旧約は、人間は人間を救えないことを本当によく分からせてくれます。人間がどれ程善意で優しく相手に接した所で、それなら自分が相手の罪をどれだけ担えるか。尻拭いをさせられるようなことはあるでしょうが、罪を全て贖い取る事は出来ません。相手の罪どころか自分の罪さえ償えない。むしろ、自分の責任を相手のせいにして押し付けるのが、人間の常です。人は人を救えない、その罪深さをつくづく思わせるのが旧約聖書です。それだけに、このような自分たちであるけれども救って下さいと待望する想いが真剣になっていく。

旧約聖書があるもう一つの意味は、旧約聖書があったからこそ、主イエスがこの世においでになり十字架にかかり甦られた時に、このイエスはただの人間ではないと解った。例えばイザヤ書五三章の苦難の僕の詩とイエスを重ね合わせるとピタッと一致する。このイエスこそが生ける神の御子だと解る。だから十字架も一人の男がただ死んだということではない、救い主が私たちの罪を代わりに贖い取って下さる贖罪の出来事なのだと解る。

そして旧約の時代に、預言者たちがキリストの霊に導かれて救い主の苦難と栄光を証しされる経験をし、救い主を待望する。そこに、イスラエルの民、預言者たちの存在意味、そこに選ばれた意味があります。預言者たちは救い主を注意深く調べた。罪を抱え、苦難の中で、嘆きつつ、訴えつつ、祈りつつ、待望し、御言葉を求め、預言した。

ところで今年も七月八月を迎えました。ドイツの敗戦四〇周年記念式典で時の大統領、ヴァイツゼッカー氏が語った言葉、「過去に目を閉じる者は将来にも目を閉じる」という主旨の言葉があります。また一週間ほど前の六月二三日、沖縄戦の日本軍の組織的戦闘が終わったとされる記念日、その七三周年記念式典で中学校三年の生徒、相良倫子さんが「生きる」と題して創作文を聴かせてくれました。ヴァイツゼッカー氏の言葉と共に、歴史に生きるとはどういうことか、その意味を語る文章です。その一部を紹介したい。

「心から誓う。私が生きている限り、こんなにも沢山の命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。もう二度と過去を未来にしないこと」。

「あなたも、知っているだろう。この島の悲しみを。そして、あなたも、私と同じこの瞬間を一緒に生きているのだ。だから、きっとわかるはずなんだ。戦争の無意味さを。本当の平和を。頭じゃなくて、その心で」。

「これからも生きていく。一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って。何故なら、未来は、この瞬間の延長線上にあるからだ。つまり未来は今なんだ」。

「摩文仁の丘の風に吹かれ、私の命が鳴っている。過去と現在、未来の共鳴。鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。命よ響け。生きゆく未来に。私は今を生きていく」。

過去を繰り返さず将来を作り上げていくために今を生きることを私たちに語っています。 

ペトロ書十二節最後の所に、天使たちも見て確かめたいと願っていたものなのですとあります。預言者の願いを知ると、クリスマスの時に天使たちがあれ程に喜んだのも解ります。クリスマスの晩、天の大軍たちは「天には栄光、地には平和」と空一杯に広がって喜びの歌を歌い交わした。

天使たちが見て確かめたい。この「見る」という言葉は、主の晩餐の場面でも使われています。「苦しみを受ける前にあなた方と共にこの過越の食事をしたいと、私は切に願っていた」(ルカ二二・一五)。この「切に願う」の言葉が同じ言葉。過越の食事を弟子たちと共にする光景を見たかったのだと主イエスが切に願う。ただの食事でない。十字架直前の十字架の意味を込めた食事です。そこで裂かれるパンは「私の体」。杯は「私の血による新しい契約」。この十字架で主イエスの体が裂かれ全ての人の罪が贖われる。この十字架で血が流され「私があなたの神となり、あなた方は私の民となる」という契約が新しく締結される。神の御子が罪の歴史の中においでになり、歴史に生き、歴史をこの罪の歴史のまま終わらせない。苦難に続く神の栄光を以て歴史を完成させる。そのための十字架と復活の御業を、主イエスこそが見たいと切に願われた。聖餐式において、私たちもこの救いの光景へと信仰の眼差しを向けるのです。

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