「信仰者の労苦と喜び」

森田恭一郎牧師

(ペトロⅠ 1・6-9)

二週間前、ペトロ書から説教致しました時には、人はどこから来てどこへ行くのか、を主題にして御言葉を味わいました。どこから来るのかについては一章二節、予め立てられた御計画に基づいて、選ばれた。このご計画の中に私たちの存在は選ばれ、愛される者として覚えられ、そのような者として、命授かって生まれてきました。

どこに行くのかについて、三つの何々に向かってとあることを紹介しました。一つ目は三節、生き生きとした希望に向かって、二つ目は四節、天に蓄えられている財産に向かって、三つ目は五節、準備されている救いに向かってです。救いに向かう私たちのこの道行きは神の力にあって守られ、これを私たちは信仰を通して受けとめる訳です。

それで今日は、神様の御計画のうちに選ばれて生まれてきた私たちが、この地上ではどういう存在として生きるのか、この道行きについて、御言葉を味わいます。

まず六節、それ故、あなた方は、心から喜んでいるのです。信仰者として生きるということは喜んで生きる。喜びが基調にある。ただ、今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれません。試練がない所で初めて喜べるというのではない、元の言葉はむしろ、試練に悩まなければならないと強い表現です。試練にある時、信仰者といえども悩んでいい。悩んで当然、嘆いて当然、呻いて当然、叫んで当然です。

今日は説教題を「信仰者の労苦と喜び」と致しました。私たちは信仰者としての試練の悩みと救いの喜びの二重性を地上にあっては抱えています。このペトロ書簡が見つめている社会状況、それは異教社会です。それまでキリストを知らなかった異邦人がキリスト教徒になったが故に被る試練があった。後には迫害になることもありましたが、迫害までいかずとも、むしろ日常的なこととして、試練がある。日本社会における私たちキリスト教徒も同じです。異教社会の中でキリスト教を信じて生きるのは、必然的に信仰者であるが故の試練や労苦を伴い、時に悩みながら生きることになります。ですが喜びを失うことなく生きる。

詩編六六篇にこうあります。神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された。詩編も試練があることを認め、かつ前向きに捉えます。そしてあなたは我らを網に追い込み、我らの腰に枷をはめ、人が我らを駆り立てることを許された。我らを駆り立てるというのは、ある訳では、あなたは人々に私たちの頭をまたがせとあります。人々がエジプトでイスラエルの人たちを踏みつけて、しえたげる様子を唄っています。そこから我らは火の中、水の中を通ったがあなたは我らを導き出して、豊かな所に置かれた。この詩篇はこのように試練を語りつつも、一節では全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ、御名の栄光を誉め歌え。栄光に賛美を添えよと歌います。

喜びは、試練がない中での喜びよりも、試練にさらされながら与えられる方が喜びの輝きが大きい。だからペトロ書一章七節前半、あなた方の信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらもという表現になります。信仰の喜びは試練にあって精錬されて本物になっていく。皆さん、こう口をついて語ることがありませんか。信仰があって良かった。こう思うときというのは辛い中にある時ではないですか。しかも精錬されながら、信仰があって良かったという表現が、やっぱり信仰があって良かったという表現に深まっていく。納得の度合いが深まる。

信仰は現在のことですが、その内容は、将来に向けて希望を持っているということ、しかも生き生きとした希望です。それで七節後半、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。私たち信仰者の喜びは何か。今日の聖句はそれを、イエス・キリストの現れる終末の時に、キリストを称賛しキリストの栄光と誉をほめたたえる喜びと表現しています。時間的には将来の終末の時、空間的には天を仰ぐことに於いてです。この世のものとは思えない、輝きに満ちたキリストの栄光を称賛する光景です。皆さん、信仰者になって、こういう天上の光景を思い描くようになっているのではありませんか。

ところで昨日、清教学園での授業参観に行って参りました。生徒の親としてではなく、理事・評議員に与えられている授業参観です。二コマの内、一つを紹介します。中学校一年生の国語の授業でした。耳、鼻、腰、息などを使った慣用表現の授業でした。宿題で考えてきた生徒の文章が紹介されていました。例えば耳ですが「母に、耳にタコが出来るほどに『勉強しなさい』と言われる」。生徒は毎日大変ですね。鼻では「今日のテストで皆が点数が低いのに、自分だけ満点なので鼻が高い」。一度は経験してみたいものです。肩では「テストの点数が悪く肩を落とす」。これなら私も経験あります。腰では「テスト勉強に本腰を入れる」。立派な生徒ですね。それから息、呼吸の息です。「中間テストが終われば期末テスト…と息つく暇もない」。サラリーマン川柳とか高齢者川柳とかあるようですが、中学生川柳も募集したら味のあるのが集まりそうですね。腰を用いた慣用表現の中で他にこういうのがありました。「このうどんは腰がないのでおいしいとは言えない」。

ここから思い浮かべたこと、腰のない信仰、逆に腰のある信仰とはどのような信仰か。それは一見うどんのようにふにゃふにゃしているようでも実は腰がある、そういう信仰。それは、試練の中にあって悲しんでいるようでありながらも喜んでいる信仰、それが腰のある信仰、打たれ強い信仰ということです。時に否定的に問われることがある、神様は本当にいるのかと。キリストが生きているというのなら見せてみろと信仰を馬鹿にされることもあるでしょう。でも八節の表現でいえばあなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。こういう信仰が腰のある信仰です。

試練の中にありつつも喜ぶ腰のある信仰を、八節では、キリストを見なくても愛すると言います。キリストに愛されることを喜びを以て信じる信仰は、キリストを愛する腰のある信仰になります。その信仰は、讃美歌四八三「苦しみ、憂き悩みも厭わじ、勇み歌わん、主を愛する愛をば」の面と、四八四「主、我を愛す」の面と両面あります。この信仰に生きる。苦しみ、憂き悩みも厭わじと…。

授業の中で、首の慣用表現もありました。「来週の、友だちと遊ぶ日を首を長くして待つ」。「父と母の会話に首を突っ込む」。「関わったらめんどくさそうなことに、よく首を突っ込んでしまう性格に、頭を抱える」。これは首だけでなく頭も出てきました。時間的には首を長くして時を待つ。空間的には首を突っ込んで関わる。地上の苦しい中にあって、時に憂き悩みにぶち当たりながら、天上の光景に首を突っ込む。

主の祈りで、御国が来るまでの間、御心の天になる如く地にもと祈るとき、それは天上から地上へという方向性ですが、天にまします我らの父よと祈るなら地上から天上への方向です。いわば天上に首を突っ込んでいる訳です。

主イエスは仰いました。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。私のために罵られ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」(マタイ五・一〇以下)。またこうも仰いました。百匹の羊の譬えの所で「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ一五・七)。これらの御言葉は、地上から天上の世界を仰ぎ望み見ている姿を語ります。体は地上に生きる私たちが、首は天上の世界に突っ込み天上の世界をぐるっと見回す。三位一体の神様の会話の中に、私たちも首を突っ込んで、神様有難うと感謝を言う。あるいは、神様何とかしてと辛い所を訴える、その時、嘆きながらも腰のある信仰になっている。

八節の中ほど、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。天上の救いの世界を仰ぎ望み見ていると、素晴らしい喜びに満ち溢れます。この素晴らしいという言葉はやや平凡に過ぎます。元は栄光という言葉です。ですからある聖書は栄に満ちた喜びに踊っていると躍動感あふれた訳をしています。天上のキリストの世界に首を突っ込み、神の栄光に包まれ、気付いてみたら、体も腰を振って踊っている。腰のある信仰になっている。九節、それは、あなた方が信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。信仰の実り。それは信仰の目標、終着点と言ってもいい。時間的には現実の今の時から終末の時を待ち望みつつ、空間的には現実の生活から天上の世界をしっかりと仰ぎ望み見ながら、そのことによって素晴らしい栄えに満ちた喜びに溢れてこの世を生きている。それが私たち信仰者の姿です。

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