「生き生きとした希望へと」

森田恭一郎牧師

(ペトロ一・3-5)

人はどこから来てどこへ行くのか。古来多くの人たちが問いかけてきました。しかしどれ程考えても、私たちの側からは解りません。何か答えたとしても、そう言える根拠もありません。ならば、そう問うのは止めて、今の地上の人生を一生懸命生き、この世の幸せを求めて生きる、それでいいじゃないか、と日本人の多くはそれで満足しているのではないか。初詣に出かけて人々が願う願い事は何か。絵馬に書き込まれたことなどを見ると、この世の幸せを願うことが殆どのようです。難しい問いは考えても所詮解らない、大事なのは今生きているこの世の生活だ。もっともな話です。

聖書も、どこから来てどこへ行くのか、問いかけております。詩編三九篇も五節以下、「教えて下さい。主よ、私の行く末を。私の生涯はどれ程のものか。いかに私が儚い者か、悟るように」。この行く末というのは、まずは地上の人生の行く末でしょうか。でも一三節の後半に私は御許に身を寄せる者、先祖と同じ宿り人とありますから、地上の人生を超えた主の御許を仰ぎ望み見ているようです。とは言え、まずは自分の人生を振り返ります。六節、ご覧下さい、与えられたこの生涯は僅か手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも全て空しいもの。ああ、人はただ影のよ

うに移ろうもの。ああ、人は空しくあくせくし誰の手に渡るとも知らずに積み上げる。どれ程地上の生涯が幸せであり成功した人生であっても、人生の短さ、空しさに気付き向き合うなら、深刻な、いや真剣な問いが出てきます。八節、主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。ここにあの問いが出てきています。そしてこの詩人は私はあなたを待ち望みます。一〇節後半あなたが計らって下さるでしょう。きっとこの答えに安心したと思います、と思いきや一一節、私をさいなむその御手を放して下さい。御手に打たれて私は衰え果てました。自分の罪の所在、それに対する厳しい主の眼差しと御手を詩人は感じています。どこへ行くのか、地上の人生だけで終わるなら空しいというだけのことではなく、罪を抱えたままの自分の人生の行く末を何か感じ取っています。

ルカ福音書一二章一三節以下、主イエスが、貪欲には注意を払いなさい、人の命は財産によってどうすることも出来ないと仰って、ある譬え話をお語りになりました。ある金持ちが登場します。畑が豊作で作物をしまっておく場所がない、思案した末、新しい蔵を建て、これから先何年も生きていくだけの蓄えが出来たと安心する。

この作物という用語、成果とも訳せる言葉です。一生懸命仕事をしてこれだけの成果が上がった。私たちは地上の社会生活を生きていますから、人生の成果を求めます。また求められもします。学生でも会社員でも学業成績や営業成績を上げることを求められます。それは所詮空しいことだから要らないよという訳にはいかない。社会に生きる以上はやるべきことはやって、ある程度の成果は上げなければならない。この金持ちの人の問題点は「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えが出来たぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」、自分の人生の根拠を、神様にではなくこの蓄え、人生の成果に置いたことです。

ここである現実が明らかになる。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意したものは一体誰のものになるのか」。厳しい言葉です。こう言われた瞬間、金持ちは自分の生涯が僅か手の幅程であり、確かに立っているようでも全て空しく、あくせくし誰の手に渡るとも知らずに積み上げているということを知らされます。更にそして神様は言います。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」。譬え話はここで終わります。この金持ちはきっと、御手に打たれる思いだったことでしょう。

先ほどの詩編に私をさいなむその御手を放して下さいと罪と向き合う言葉がありました。だから私の成果、私の業、そして私の罪に従って私を裁かないで下さい、そうではなく、あなたの恵みによって救って下さいと詩人は気付いている。詩編にしてもルカ福音書にしても、どこから来てどこへ行くのか考えても解らない。だから今を幸せに、この世の成果を求めて生きればいいではないか、というのでは未解決なのだと考えている。やはり、この問いを無視して生きて行く訳にはいきません。もっとも、成果を求める人生は儚く空しいと申しましたが、逆のことも言えるかもしれません。地上で成果が上がらず、あるいは辛いことや納得の行かないことがあっても、それは地上のことだけでしかないということです。地上のことに何故それ程に捉われるのかという問いでもあります。

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りだ」。主イエスはただ𠮟りつけ恐怖心の中に放り込んだのではありません。ここで課題をお示しになりました。それは神の前に豊かになることです。これは直訳すると、神に向けて豊かになることです。地上の生涯が幸せであっても、反対に納得の行かないものであっても、やはりどこから来てどこへ行くのかを問うことは大事であり、神に向かう姿勢が不可欠です。

どこから来てという問いについては、先週のペトロの手紙一の一章二節がその答えに触れています。あなた方は、父である神が予め立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけて戴くために選ばれたのです。どこから来たのか。神様の御計画、神様の選びから来た。神の御計画は、私たちの生まれる前、天地創造の前です。その時点から神様の御計画があり、その中に私たちの存在は覚えられ、愛される者として選ばれ、そのような者として私たちは命を授かって生まれてきた訳です。誕生日に歌う歌があります。

♪生まれる前から神様に守られてきた

友だちの誕生日です。おめでとう。♪

素朴ですがいい歌です。讃美歌21(五四七番)にも載っています。生まれる前からなんです。神様の御計画の内に覚えられ、私たちは愛される者として選ばれ、そして生まれてきた。それが聖書の、どこから来たのかの問いに対する答えです。

それでは、どこに行くのかについて、今日の聖書個所は実に豊かに語っています。先ほど、神に向けて豊かになると言いましたが、この箇所では神に向かう内容を次のように言い換えています。三節、神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、これは希望に向けてです。生き生きとした希望に向けて新たに生まれさせという文章です。四節もまた、あなた方のために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者として下さいました。これも財産に向けてが直訳。天に蓄えられている財産に向けて新たに生まれさせです。そして五節にもあなた方は、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。救いに向けて守られています。どこへ行くのか。希望に向けて、財産に向けて、救いに向けてです。

でも何故このことが分かるのでしょうか。三節中程でこう語ります。死者の中からのイエス・キリストの復活によってと。聖書が答えを語り得るのは、イエス・キリストを見たからです。出会ったからです。そのイエス・キリストは、天から来られ、十字架で死なれたけれども復活なさり天に挙げられたお方です。このイエス・キリストに出会って、そうか、私たちは希望に向けて天の財産に向けて新たに生まれ、救いに向けて守られ、神に向けて豊かにされているのだと解る。私たちはキリスト者です。ただ神様では駄目です。そしてキリストに出会うのは、信仰によって(直訳は信仰を通して)です。信仰を通してイエス・キリストを受け止める。十字架を経て死者の中から復活されたイエス・キリスト、ここに現れてくる神様の御心は、御計画によって私たちは造られ、希望と財産に向けて新たに生まれさせ、救いに向けて今は守られているということ、それが解る。

朽ちず、汚れず、しぼまない財産は天に蓄えられている。地上では離散して仮住まいしていても、天上に私たちの行く末を見る根拠がある、これを知って私たちは地上を生きる。これを知らないままに地上を生きると、この世の幸せのみを求めるようになり最後にはその儚さを知ることになる。でも、イエス・キリストの復活によって、私たちには希望、天の財産、準備されている救いがある、と知った者は、同じ地上に生活しつつも天上に根拠を置きながら生きるようになる。

すると、この地上の幸せも不幸せも、地上の営みが上手く行っても行かなくても、それが全てだと思う必要はなくなる。天上に根拠があることを毎週日曜日主日礼拝で確認し、月曜日からの社会生活を責任を以て生きていく。気がムシャクシャしたから何をしてもいいはずはない(気がムシャクシャして起こした殺人事件が一昨日にあった)。気がムシャクシャすることはあるだろう。その私たちを整え支えていくのは、天上に根拠があるという確かな出来事です。幸いにもそのように生きられるように招かれている。私たちは、神の力により、信仰によって(を通して)守られています。

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