「一度死んだが、見よ、いつまでも生きている」

森田恭一郎牧師

(ヨハネ黙示録1・9-20)

神様は神様であられるということをイザヤ書はこう語ります。「私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない」。そしてイザヤに「恐れるな、怯えるな。既に私はあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたたちは私の証人ではないか」と仰って、イザヤを勇気づけ、神を語る証人として語るべきことを告げます。そして今日の黙示録でも一七節、イザヤ書の言葉と同じように語ります。「恐れるな。私は最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」。

黙示録で語っておられるのは主イエスですから、イザヤに向けて語られた「私は初めであり、終わりである。私をおいて神はない」という神様が、黙示録で語られた「私は最初の者にして最後の者、また生きている者である」という主イエスと、同じお方であると黙示録は宣言している訳です。

イエス様が神様であることは私たちにとって当たり前のことですが、黙示録が記された時代は、一世紀から二世紀にかけ、イエスが神であることを否定する人たちが教会内にもいた。思えば三位一体の神を正式に告白したニケア信条が承認されたのは三八一年、四世紀後半になってからです。それまでの間、イエスが神であることが意外と定まっていなかった。それが百年、二百年と様々な論争や出来事があり、最終的にニケヤ信条が制定されて教会の姿勢が定まった訳です。それだけに主イエスが問いかけた問い「それではあなたたちは私を誰と言うか」。この問いは、その後数百年に亘る問いであった。そして今日も、イエスは神の御子、神ご自身である、あの十字架は私の罪を贖う御子の十字架だと、しっかりと教会の信仰告白をし誓約をして初めて、洗礼を受け信徒となる。

改めて九節以下、まずヨハネの自己紹介です。「私は、あなた方の兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐に与っているヨハネである」。人生に苦難や忍耐は付きものです。そしてヨハネの場合には、主イエスが神の御子としてこの世にお出でになったが故にお受けになっている苦難やご支配に向けての忍耐に、自分もキリスト教徒として共に与っていると語ります。

旧約聖書は苦難を巡る問いに満ちている。旧約ですから主イエスの苦難にまで思いは至りませんが、信仰者として生きる苦難なら沢山経験しています。異教徒から受ける迫害と共に、もう一つ、信仰者としての苦難があります。本当に神はおられるのか、との問いに思い悩む苦難です。迫害を受けながらも、神からの声が聞こえてきて「大丈夫だ」と言ってもらえれば、苦難にも耐えられるというものですが、預言者のようには普通は聞こえてはきません。それは信じるしかないのであって、そのお姿も見えてこない。そういう中で迫害や辛いことがあり、それが続くと、信仰が揺らいで来る。それが信仰者にとって一番厳しい。

旧約の歴史を思い起こすと、モーセが現れるまでの間、イスラエルの人々は呻き、叫び声をあげていた。出エジプトの出来事があり、サウル―ダビデ―ソロモン、イスラエル王国が建国されますが分裂し、北王国はアッシリアに、南王国はバビロニアに滅ぼされ捕囚の身となる。七〇年後捕囚から解放されますが、カナンの地に戻って来ても、イスラエル王国の再建には至らない。捕囚後五百年近く経っても異邦の国々に支配され建国できない。出エジプトやダビデ王国の栄華はとっくに遠い昔の出来事となり、改めて神はおられるのか、歴史を支配しておられるのか、忍耐しがいのある希望はあるのか。神のみ姿が見えなくなった。

厳しい信仰状況の中で、信仰の表現手段として出てきたのが黙示思想です。論理的より幻想的にファンタジーとして表現する。最後は良くなる、終末の前にこの世の悪は滅ぼされて神のご支配が明らかになると。黙示思想は紀元前四世紀辺りから紀元後二世紀前半まで、主イエスの時代も、黙示録が著された時代も、黙示思想の時代でした。

ヨハネは、ダニエル書をよく読んでいたようです。これも黙示思想の文学に属する書物です。ヨハネ黙示録の今日の箇所は、ダニエル書一〇章ととても似ています。一部だけを読みますと、「その頃、私ダニエルは、三週間に亘る嘆きの祈りをしていた」。ダニエルもまた歴史の中で嘆かざるを得ない。その時に幻を見ます。「目を上げて眺めると、見よ、一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青銅のよう、話す声は大群衆の声のようであった」。何だかヨハネ黙示録と似ています。何を言いたいのかというと、ヨハネは例えばダニエル書を読みながら、その御言葉に従って導きを受けて黙示録を記したのだろうということです。  一〇節に「ある主の日のこと、私は“霊”に満たされていたが」とあります。主日礼拝にダニエル書が読まれ、あるいは主日の日に自分で読んでいたのかもしれません。聖霊に満たされるとはどういうことか、先週は幻を見ることだと申しました。今日申し上げたいことは、聖霊に満たされるというのは御言葉の体験だということです。

今日の黙示録一三節以下、主イエスのお姿が記されております。「燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水の轟のようであった。右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった」とあって、随分恐ろしいお姿です。この表現通りに主イエスのお姿を信じなければならないのか、ヨハネは本当にこういう幻を見、声を聴いたのかと私たちは戸惑いますが、その必要はありません。ここにある表現は、実際のことではなく、幻想的なファンタジーです。このファンタジーが示す事柄は、主イエスは真の王、支配者であられるということです。ファンジーとしての表現そのものをそのまま信じる必要はない。事柄を受けとめればいい。

ヨハネは、ダニエル書の御言葉を幻の素材にして、イエス様は神様だと確信する出来事を経験し、それを語ります。黙示録は主イエスのお姿を、例えば「目はまるで燃え盛る炎」と記しますが、それはダニエル書の「目は松明の炎のようで」を素材にして描いただけのことです。 

一七節後半「恐れるな。私は最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」。この言葉も先程のイザヤ書をヒントにしてヨハネが気付きを得たのかもしれません。イザヤ書やダニエル書の御言葉と、ヨハネの置かれている人生の事実が重なった時に、イエス様は神様ご自身であられる、その神に在っては、死さえも神に従うということ、歴史を支配しているのはキリストご自身であられるという確信が与えられた。そして神のご支配と希望に至る忍耐を出来事として経験しました。

以前、ボランティアとしてチャプレンの奉仕をしました。ある方を初めてお訪ねしました。私が牧師であると分かると問いかけて来ました。「あなた牧師さん? 神様って本当にいるの」。唐突な問いかけに驚きつつも「神様はおいでです」と答えました。すると安心されたようでした。その方がイメージされている神様と、キリスト教の神様が一致しているかどうかはともかく、この問答は、その方にとって大事な問答となった。病を得て、今は病床にあり、いずれ地上の人生が終わることは解っている。迫害の苦難ではないにせよ、その人にとっての苦難の中にあって、忍耐しながら病床の日々を過ごす。自分の心に起こって来る人生の問い。神様は本当にいるのか、神様はこの歴史を、そしてこの自分を御手の内に支配し導き守って下さるのか、死んでも天国があると希望を以て今は忍耐すればいいのか。あの時の自分の失敗、罪を赦してもらえるのか…。御言葉を求めたのだと思います。聖書に親しんでいる方ではない。でも牧師に問うてきたのです。そして安心した。残りの日々安心の中で過ごせた。安心して死ねる。二週間後、良い看取りを迎えることが出来たと看護師から報告を受けました。周囲の医療のスタッフも本人も予測できなかった出来事、安心し得たという出来事が起こった。理屈ではありません。自分なりに神様をほめたたえたことでしょう。

死ぬ直前に限ったことではありません。夫々自分が置かれている人生の状況があり人生の問いに直面することがある。キリスト者でも神はおられるのかと問う時がある。そうしたら御言葉に触れたらよい。礼拝で説教を聴き、あるいは聖書を読み、御言葉に触れ、聖書の言葉を味わいながら、何かしら御旨に気付き、神様はいらっしゃると改めて気付かされます。聖霊の導きの下、神の臨在と神のご支配を信じる信仰の確信が与えられます。それは出来事として起こることです。

今日の黙示録の言葉、恐れるな。私は最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。それが私だ。その私を信じるがよい。そしてヨハネは、この主イエスを七つの教会に証言しなさいと示されたのでありました。

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