「福音に留まり、福音から出で立つ」

森田恭一郎牧師

(ルカ24・44-49)

今日は、事実と御言葉が結びついたら信仰の出来事になるという主題で改めて語りたく思います。今年のイースター、ルカ福音書を読んできました。その特色の一つは、主イエスの言葉を思い出すこと、聖書の説明を聞くことが強調されていることです。その御言葉と、その時々の事実が結びつきますと、信仰の出来事になります。

六節以下「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。まだ、ガリラヤにおられた頃、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。墓が空だったという事実に、この御言葉が結びつき、主イエスの復活を認識する信仰の出来事が起こる。

二五節以下「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。二人の弟子たちに主イエスが共に歩かれる事実に、この説明された御言葉が結びついて、心が燃えるという出来事が起こる。

更に三〇節以下の所では、パンを裂いて渡す聖餐の事実に、思い起こした御言葉が結びつくと、イエスだと分かったという信仰の出来事が起こる。

四四節、イエスは言われた。「私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ず全て実現する。これこそ、まだあなた方と一緒にいた頃ころ、言っておいたことである」。そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する』」。この場合は、手や足をお見せになり、魚を一切れお食べになった主イエスの事実と、この御言葉が結びついて、弟子たちは聖書を悟る。ここでは、目の前の方が甦ってこられたイエスだということだけでなく、更にこの方がメシア=キリストであられるという信仰の気付き、信仰の認識の出来事になる。ルカ福音書のイースターの物語は、事実が御言葉と結びついて出来事になることを繰り返し語る。その時々の事実が出来事になるために御言葉が必要だと語っていている。

私たちは日々生きている、その事実がある。そこに御言葉が結びつくと、信仰の出来事が起こる。そのためには、その事実が御言葉と結びつくような事実であることが必要です。又、その事実と結びつくような御言葉であることが必要です。丁度、発酵のようなものです。小麦という事実にイースト菌が結びついてふっくらとしたパンになるという出来事。お米という事実に麹菌が結びつくとお酒になる出来事が起こる。この組み合わせが大事です。お米にいくら水を結びつけてもお酒にはなりません。私たちの生きている事実と御言葉が有機的に結びついた時に信仰の出来事に展開する。 あるいは例えば、子どもが親に大事にされているという日々の事実に「神は愛である」という御言葉が結びついた時に、子どもは自分が神様に愛されているという信仰の出来事を知るに至ります。患者さんが手厚い看護や介護を受けて、神の愛の御言葉と結びつくと、こんな病の中にある私でも神に愛されているという信仰になって、病の中でも希望を以て生きる出来事が起こります。

様々な事実を以て皆さんが日々生きている、そこで聖書を味わい、御言葉は本当だと実感するとき、自分は主イエスの救いの歴史の中にあると納得する。私たちの生きている事実と御言葉の両方が有機的に結びついて信仰の出来事に展開する。

今日の聖書個所で、主イエスは聖書の御言葉を悟らせるために、弟子たちの心の目を開いて下さった。心の目を開く。直訳は「心を開く」です。この言葉はまた三一節の二人の目が開け、三二節の聖書を説明する、直訳すれば「聖書を開く」と同じ言葉。そして四五節では心を開く。心が開いて、御言葉と結びついた。先程、この方がメシア=キリストであられるという信仰の気付き、信仰の認識の出来事になると語りました。メシアであると気付いた信仰の出来事が、今度は自分の人生の新しい事実になって、それが更にこの御言葉と結びつく。どの御言葉かというと、「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられると。エルサレムから始めて、あなた方はこれらのことの証人となる」。証人として生きる更なる人生の信仰の出来事になる。次の信仰の出来事へと展開していく。

今日は旧約聖書、詩編一二一篇から読みました。

「目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは来る。天地を造られた主のもとから」。この詩編は、都に上る歌とありますように、エルサレム神殿に巡礼に赴くときの歌です。彼が目を上げて仰ぎ見る山々とは、エルサレム神殿のあるその一連の山々です。ずっと巡礼の旅を続け、きっと自分の人生の旅路と重ねながらの歩みをここまでして来た。そしてこの山々を仰ぐ。彼にとりましては、このエルサレム神殿は、律法の契約の箱がある、御言葉を象徴する神殿です。自分のこれまでの旅路の事実と、このエルサレム神殿に象徴される御言葉がここで重なっていく。その時に起こるのは「私の助けはどこから来るのか」と呼び掛けて、「私の助けは来る。天地を造られた主のもとから」という確信が与えられる信仰の出来事です。続けて、神殿の祭司の応答の言葉でしょうか。「主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守って下さるように…」という執成しの祈りの応答の言葉が返ってくる。内容的には「主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守って下さる」出来事の断言です。断言されて確信した信仰の出来事が起こる。

さて、主イエスは弟子たちにこう言われました。「私は、父が約束されたものをあなた方に送る。高い所からの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい」。 聖霊降臨の約束です。そしてそれまでの間、エルサレムの都に留まっていなさい。エルサレムは、ルカ福音書では、十字架の贖罪が起こった場所、主イエスの復活が起こった場所、続けて聖霊降臨が起こる場所です。そこに留まるのです。「私についてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄」、旧約聖書の御言葉は「必ず全て実現する」。その場所、そこに留まりなさい、それはどういうことか、もちろん聖霊を受けるためですが、今日の用語でいえば、御言葉を受けるため、自分の人生の事実が御言葉と結びつくためです。その時、信仰の出来事が起こる。

今日は説教題を「福音に留まり、福音から出で立つ」としました。エルサレム神殿の山々を造られた主の下に留まり、エルサレムに留まり、日曜日の主日礼拝に留まり、福音に留まり、御言葉に結びつく。そこに信仰の出来事が生起する。

そこから出で立つ。日常の生活が新たに始まる。月曜日からの生活が始まる。福音の証人になって生きます。皆さんの中には、福音を証言する証人になって生きるなんて、とてもとても…と思われる方がおられるかもしれない。ペトロは聖霊降臨の後、美しい門の所で、生まれながら足の不自由な施しを乞うてくる人に向かってこう言いました。「私たちを見なさい」。私たちは、殊更何も語らなくても、自分の姿、自分の生かされてある姿を見てもらうだけでいい。福音に留まった所から始まる、既に福音に生きている姿がある。証人になっている。そこからキリストの香りが漂ってくる。その香りの中では、この人とはいるだけでホッとするとか…、周囲の人にそういうことが起こる。

いや、キリストの香りが私からだなんて、とてもとても…。そういうこともあるかもしれない。今日の説教題、実はもう一行、加えたかったのです。「福音に留まり、福音から出で立ち、福音に向かう」。月曜日からの日々の生活、悩んだり、信仰上の疑問が出てきたり、色々ある訳です。だから、月曜日からの生活のそういった諸々の事柄を引きずりながら、また日曜日の主日礼拝に向かう。戻ってくる。詩編八四編「万軍の主よ、あなたのいます所は、どれ程愛されていることでしょう。主の庭を慕って、私の魂は絶え入りそうです。命の神に向かって、私の身も心も叫びます」。日々の歩みに於いて人生の厳しさを味わっている。自分の魂が絶え入りそうになる程に、身も魂も絶え入りそうになる程に、主の庭を慕う。命の神に向かう。私たちキリスト教徒の生活は、主日礼拝に留まり、そこから出で立ち、そこで生き、魂が絶え入りそうになる。そして主日礼拝に向かい、礼拝で福音に留まる。それが私たちのクリスチャン・ライフの形成です。主の庭、命の神を慕って生きる存在そのものが香りを漂わせている。

「高い所からの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい」。まず留まり、聖霊を受け福音の恵みに与る、まずそのことへの招きを主イエスが語っておられる訳です。それは、私たちの人生が御言葉に結びつくことへの招き、信仰の出来事から始まる更なる信仰の人生の営みへの招きです。

トップページ
教会学校
各部会案内
婦人会 壮年会 青年会 シャロンの会 カレブの会