「喜びの余り、信じられない」

森田恭一郎牧師

(ルカ24・36-43)

弟子たちは、復活の主にまみえました。そこに彼らの交わり、主にある交わりが成り立ちました。今日はこれを主題としたいと思います。

死人の甦り、復活は、そもそも人間の日常的な経験や常識的考えでは捉えきれません。ですから、弟子たちが婦人たちから主の復活の知らせを聞いた時、その知らせを疑ったのは自然の成り行きです。知らせを耳にした時だけではありません。それどころか、エルサレムからエマオに向かう二人の弟子たちは、目の前に復活の主を目の当たりにしているのに、日常的体験や常識的考えに遮られて、復活の主イエスを認識出来ません。

私たちの日頃の言い方で、何かびっくりするような話を聞いた時に、ほんとー?と言う時と、うっそー!と言う時があります。弟子たちは復活の主イエスの話を耳にした時、目の前に復活の主が現れた時、どっちだったでしょうか。

あの疑い深いと言われてしまうトマス、周りの弟子たちから「復活の主に出会った」と聞いて、彼はこう言いました。「あの方の手に釘の後を見、この指を釘後に入れて見なければ、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」。これはうっそー、という文字通り疑い深いトマス

という感じですね。その後に主イエスが弟子たちの所に来て下さって、真ん中に立ち「あなた方に平和があるように」と仰って、それから、トマスに言われました。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。この時トマスは 主イエスの手の傷跡、脇腹の傷跡を目の当たりにしながら手を伸ばして触れたのでしょうか? 聖書には書いていません。でも少なくとも、うっそーと思って疑い深くあり続けたという感じはしません。むしろ、正に自分に向かって眼差しを向け語りかけて下さる主イエスに圧倒されて、それで聖書が語るトマスの言葉は「私の主、私の神よ」でした。

マタイ福音書の最後の場面、「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」。主イエスに出会い、出会っているから平伏して礼拝をささげているのに、疑う者もいた。この弟子たちは、うっそーというニュアンスでしょうか。仮にそうであっても、お会いしても信じない弟子たち、と批判するのは酷というものです。復活は我々の日常の認識体験や常識的考えには手に余る出来事で信じ難いことだからです。でも、この疑い、ほんとー?ほんとだ、の可能性もあります。今日のルカ福音書の箇所、面白い言い回しがあります。

やはり主イエスご自身が現れ、彼らの真ん中に立ち「あなた方に平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「何故、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい。正しく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなた方に見える通り、私にはそれがある」。こう言って、イエスは手と足をお見せになった。主イエスが、ほらっ、と手と足をお見せになった。それから魚を召し上がった。弟子たちはこの甦りの主イエスを共有しました。主イエスの手には十字架の傷跡がある。確かに十字架にかかられた主イエスだ。復活のしるしだ。それは贖罪のしるし、赦罪のしるしも伴っている。そこに正に、主イエスと弟子たちの間に平和がある。

この雰囲気は明るい。主イエスのユーモアがあります。だから、弟子たちは、喜びの余りという表情になった。彼らが喜びの余り未だ信じられず、不思議がっているので、という言い回しは面白い。信じられないのに喜びが溢れているからです。ここには、うっそーという響きは感じられませんね。ほんとー? ほんとだ。弟子たちが触ったかどうか、ここも書いていない。もしここで触ったとすれば、疑い深い思いで触ったというより、ほんとだ、ほんとだ、と言いながら喜んで触った。そんな場面でしょう。喜びに満ちた信じられない姿、喜びに満ちた不思議がっている姿というのがある。不思議はワンダー、不思議が一杯溢れてくるとワンダフルになる。こういう喜びの余り、信じられないで不思議がっているのが復活の場面です。

弟子たちは、喜びの内に主の甦りの福音を共有した。もっとも、主の甦りの福音の共有は、エマオ途上の二人の弟子たちがあの宿屋で既に共有していました。イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かった。この聖餐の時に、目が開けて主イエスを二人は共有した訳です。

また、その後もそうです。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いて下さった時にイエスだと分かった次第を話した。ここでも、二人の弟子たちと、エルサレムに集まっていた弟子たちとが、共有しています。エルサレムに集まっていた弟子たちは「シモンに現れた」と甦りの福音を語り、又あの二人の弟子たちもイエスだと分かった次第を話しました。彼らは夫々出会った甦りの主イエス、その証をみんなで共有し合った訳です。この風景、これが教会の風景だと言えるでしょう。風景というと外から見た言い方になりますが、私たちの側から言えば、教会の主にある交わりです。

因みに、私が当教会から招聘のご意向を戴いた時点で長老会から申し出られたことがありました。その一つが、「教会員相互の交わりを深める、恵みの共有のための信徒の交わりを厚くする」というものでした。教会における交わりの理解、受け止め方について、今日皆さんと共有したい。

教会員「相互の」交わりとありました。これは教会員「同士」仲が良い、親密な関係である、ということと同じなのでしょうか。もちろん教会の交わりにそういう側面があるのは事実です。

交わり、ギリシャ語ではコイノニア、これは「あるものに共に与って共有する」という意味合いを持ちます。そこから考えますと、教会員の交わりは、相互に仲が良いだけでは教会の交わりにはならない。福音に与る、主イエスの人格に触れる。それを共有する時に初めて教会員の交わりになる…。どうやって、福音に与り、主イエスの人格に触れるかというと、聖書の言葉を聴き、聖餐に与る。聖書の言葉に触れながら聖餐の体験を思い起こす、聖餐に与りながら聖書の言葉を思い起こす。御言葉と聖餐の事実、この二つが相俟ってキリストがここにおられる出来事が起こり、この出来事に於いてキリストの人格に触れることになります。出来事が起こった時、福音に与る、主イエスの人格に触れている。そして共有している。

長老会が「教会員相互の交わりを深める」に続いて「恵みの共有のための信徒の交わりを厚くする」と言っているのは大事なことです。ただ、一つ確認しておきましょう。この文書は「恵みの共有のため」に、その目的の前段階として「信徒の交わりを厚くする」ことが別にあると読み得る文章ですが、それは勘違いです。「恵みの共有」をすること自体が「信徒の交わり」になります。「恵みの共有」をしっかりすること、そのものが「信徒の交わりを厚くする」ことです。逆に言えば、恵みの共有なしにはどれほど教会員が仲が良くても、それは教会の交わりにはなりません。

交わりの会があるとするならば、礼拝で恵みを共有すること自体が交わりで、礼拝自体が交わりの会です。使徒信条の「聖徒の交わり」が意味することも同じです。礼拝で御言葉を聴き、聖餐を共にして、罪の赦しを戴く。贖罪のキリスト、復活のキリストの人格に触れる、そうやって福音の恵みを共有した時、実はもう、そこで聖徒の交わり、教会の主にある交わりは成り立っている。人間的な相互の仲の良さに先立ってです。

その上で、いわゆる交わりの会がある。私たち相互の交わりです。宿で目が開かれたあの二人の弟子たちとエルサレムに集まっていた仲間たちが証しし合い、また手と足をお見せになり魚を一切れ召し上がられた主イエスのお姿を分かち合って、相互に共有したように、集う私たちも恵みを相互に共有します。礼拝で戴く御言葉から思い起こし、生きて働かれる主イエスを相互に分かち合います。

仮に、人間的には自分は相手を赦せないと思えてしまうことや、愛することが出来ないと思ってしまうことがあっても、「相手の人を赦し、愛していると主イエス」を礼拝で共有し、「そのように赦され愛されている相手」を実際に相互に見出すことは出来る。そのように主イエスを通して「教会員相互の交わりを深める」ことは成り立つ。長老会は、このことを、招聘にあたり牧師に求め、また教会員の同様の理解を求めている訳です。

もっとも私たちが交わりを作り深めるというより、主イエスが、ご自身との交わりの中に私たちを招き入れ、主イエスを通して相互の交わりを持つ神の民=教会の群れを形成しておられるのです。

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