「主よ、私たちから離れないで下さい」

森田恭一郎牧師

(ルカ24・28-35)

今日の主題は、出来事としてのキリストの出会いです。エマオ途上の、いや、エルサレムから、十字架と復活の福音の出来事のあったエルサレムから離れていく二人の弟子。主イエスが復活なさり生きておられるという知らせを信じられないでいる二人。そのような彼らに、離れていかないようにと近づき彼らに寄り添い「メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るはずではなかったか」と聖書全体に亘り、ご自分について書かれてあることを説明して下さった一人の見知らぬ方。目の前に現れたその方は主イエスご自身であられたのに、二人は目が遮られてそのことに気が付かない。

その二人が「一緒にお泊まり下さい。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って無理に引き止めたのは何故だったのか。旅は道連れ、その親切心からだったのだろうか。

この泊まるという言葉、これはヨハネ福音書一五章で主イエスが「私はまことの葡萄の樹、あなた方はその枝である。私に繋がっていなさい」と言われた「繋がる」という言葉です。また同じく一章三八節「先生、どこに泊まっておられるのですか」と別の二人の弟子が尋ねた時にも用いている言葉。この個所で、泊まるは文字通り宿泊場所を問いつつ、もう一つ、神と人との間にあってどこにおられて神と私たちをどのように繋げるのか、という二重の問いです。二人は主イエスについて行って「どこにイエスが泊まっておられるのかを見た」。そして「私たちはメシアに出会った」という話に展開していく。どこにお泊りですかと問いつつ、結局、宿泊場所の話は出てこない。出会いの話になる。弟子たちはメシアに出会った!

エマオ近くの宿屋に「私たちと一緒にお泊り下さい」という無理に引き留めた呼びかけは、何か不思議な自分たちの変化、心が燃え始めていたということに無意識の内に感じ始めていたからなのではないか。「この方のお話をもっと聞きたい。この方には共にいて欲しい。主よ、離れないで下さい。私たちと一緒にお泊り下さい」。思わず弟子たちは懇願するような思いで無理に引き留める。彼らは救い主との出会いを求めていました。

ルカ福音書二四章二九節の文章、主文の主語は誰でしょうか。二人が、「一緒にお泊まり下さい。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。主語は主イエスです。宿へと招き入れたのは弟子たちであったようでありながら、いつしか主イエスの方がイニシアチヴを取って、弟子たちを招き入れています。

どこへ? 三〇節「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」。聖餐の恵みの中へ。その恵みの中心点は、聖餐に於けるキリストとの出会いです。その中へとお招き下さいます。

今、聖餐の恵みの中心点は、と申しました。中心点は、キリストの十字架の贖罪の恵みだと思っておられませんか。十字架にかかり御身体を裂かれ、血潮を流された。その恵みを表す聖餐式だと。もちろん誤りではありません。主の死を宣べ伝える聖餐式なのですから。ですが…、敢えて皆さんに問います。弟子たちが一緒にお泊り下さいと願ったのは何を願ったのか、そして私たちが必要としているのは何か、主イエスが十字架で成し遂げられた贖罪の出来事なのか、贖罪の出来事を担われた主イエス・キリストとの出会いなのか…。

私たちには両方必要です。ただ主イエスが聖餐式で一番中心のこととして差し出しておられるのは、ご自身そのものです。それがあのパンと盃に込められている。聖餐式に於いて、聖霊の導きの下、キリストの臨在の出来事が起こる。贖罪のキリストか、キリストの贖罪かと、敢えてどちらか一つをと問われるなら、私たちが必要としているのは、主ご自身、その人格との出会いです。

出会いだからこそ、主イエスがパンを裂いてお渡しになった時に二人の目が開けて分かったことは何か、「イエスだと分かった」というのです。二六―二七節で主イエスはお語りになりました。「メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るはずではなかったか」と十字架の苦しみと、復活それに昇天して神の右の座に就かれる栄光に入る出来事を語りつつ、それで以て何を語られたかというと二七節「聖書全体に亘り、ご自分について書いていることを説明された」。

弟子たちはそのように御言葉を聴き、聖餐の恵みに与って、主イエス・キリストだと分かり、その人格に出会った訳です。因みに、私たち日本人が一般に宗教に求めていることは何か。ご利益であったり、私たちが何か品行方正な人間になることであったり、仏教、キリスト教と言うように何か有り難い教えであったりしないか。教会に来ていずれ分かってくるのは、大事なのは十字架と復活だということですが、もう一歩、キリストご自身に出会うことが恵みの中心だと体得したい。十字架によって罪が贖われ罪が赦されるのですが、それは、中心にこの人格があるからです。贖罪や赦罪に人格性を伴うから、神の愛になる訳です。

それでは、どこで主イエスに出会うのか。エルサレムから離れていくあの弟子たちは、目の前に主イエスと出会っているのに分からなかった。聖書の説明と聖餐の恵みに与る事実の二つがあって、初めて主イエスに出会う出来事になる。聖書の説明だけでは足りない。それは説明による知識だけになるから…。聖餐式だけでも足りない。御言葉に基づく信仰がそこには無いから…。この両方が相俟って、私たちは主イエスに出会わせて戴ける。キリストの臨在、その人格、愛に包まれる。

御言葉と聖餐の二つがある教会の礼拝に於いて出会う。旧約聖書には聖餐式はありませんが詩編四〇篇一〇節に「大いなる集会で正しく良い知らせを伝え」とあり、一一節でも「大いなる集会であなたの真実と救いを語り」と記します。そしてその終わりに「私の神よ、速やかに来て下さい」と神との出会いを求めます。そして新約に於いてキリストが来て下さいました。キリストの体なる教会は、だから教会の名において公の大いなる集会=礼拝を守り、御言葉を正しく宣べ伝え、主の晩餐とバプテスマの聖礼典を執り行う。そして教会の礼拝に於いてキリストと出会います。それでキリストの人格に栄光を帰す。栄光神に在れと。

今週、病床聖餐式を執り行います。そこでは御言葉を語ります。主日の礼拝ではありませんが、牧師が司式を行います。牧師は、個人で聖餐を執り行うのではなく、聖餐式を執行する個人的な免許を持っている訳でもない。教会の働きとして用いられる中で初めて聖礼典の執行が出来る。何故か。聖餐式はキリストの体なる教会の名に於いて、教会の繋がりに於いて執り行うからです。病床聖餐式も牧師が教会から遣わされて執り行います。受ける者は信仰を以てキリストとの出会いを祈り求めて聖餐の恵みに与ります。牧師はそのことを祈り求めて御言葉を語り聖餐を執り行います。

主イエスがパンを裂いてお渡しになったその時、二人の目が開かれ、イエスだと分かります。すると主イエスのお姿は二人の弟子たちの前から見えなくなりました。私たちは、そのままいて下さったらよいのに、と思わない訳ではありません。でも肉眼で出会っても目が遮られたあの弟子たちの様になるだけです。むしろ聖書の説明を聴き、聖餐に与って二人の目は開かれた。その時、聖書の言葉と肉眼で出会った事実が重なって、主イエスの救い主のお姿が分かる出来事になりました。

私たちはあの弟子たちに比べると、肉眼では出会っておりませんから、どうなるかというと…、パウロが面白い言い方をしました。第一コリント一三章「私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせて見るようになる」。その時とは終末の時。その時には私たちは甦らされて顔と顔を合わせて主と出会います。地上でのそれまでの間は、弟子たちのように肉眼で直接ではないけれども、私たちは福音書が伝える弟子たちの出会いの証言を聴きながら、言葉でそのお姿をおぼろに見させて戴く。でも聖餐の恵みに与って、信仰の目はしっかりと開かれ、そのお姿を見、私たちは確かに主イエス・キリストに出会います。その時、心は燃える。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さった時、私たちの心は燃えていたではないか」。この三二節の「説明」と二七節の「説明」とは別の単語です。二七節の「説明」は解釈するといったような、知識を得る聖書研究のような説明です。それに対して三二節の「説明」は三一節の目が「開け」と同じ単語。主イエスが聖書を開く、説教が目指しているのはこのように解き明かすことです。弟子たちは、聖餐に与り、先の聖書の説明の言葉が聖書の開かれてきた言葉として新しく響いてきました。それは知識の理解ではなく、出会いの出来事。それは、弟子たちに心燃える経験、主イエスと出会う経験だったのです。

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