「もう一人分の足跡」

森田恭一郎牧師

(ルカ24・13-27)

「丁度この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン(およそ十一キロ程の距離)離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合って」いました。更に強調するかのように「話し合い論じ合っていると」と言葉を重ねています。ルカ二二章では主の晩餐の場面で、主イエスが、裏切る者について言及されたとき「使徒たちは、自分たちの内、いったい誰が、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた」のでした。更に「誰が一番偉いだろうか」という議論も始まって、要するに自分たちのことで議論をしていました。

皆さんは、教会で、話題にすることといえば何でしょうか。「ああ、私なんて」と自分のことですか。「あなたはああだね、こうだね」と相手のことですか。「あの人はああだね、こうだね」と誰か他の人の良く言えば心配事、悪く言えば噂話でしょうか…。エマオに向かう道すがら二人の弟子たちが話し合い論じ合っていたのは、一九節に二人が言いましたように、主イエスのことでした。

主イエスのことを話し合っているときに、不思議なことが起こりました。「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」。復活の主イエスは、そして主イエスの霊としての聖霊なる神様は、きっと私たちの思いがけない時に近づいて来て下さるのですね。そして少なくともこの個所から明らかなことは、主イエスについて話し合っていると、近づいて来て下さる。

ただこの時、「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。本人たちが分からなくても、それでも主イエスについて話し合っていると、主イエスが近づいて来て下さる。そして近づいて来て下さった時に、次に起こることは、ただ自分や自分たちの中で悶々としているというのではない。あるいは「私のことが分からないのか」と一方的に叱られて弟子たちは首をすくめて黙りこくってしまうというのでもない。そうではなく、主イエスとの対話が始まる。

一七節以下「イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた」。何のことですかと、弟子たちに話を合わせて下さるのですね。すると二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。『エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか』。イエスが、『どんなことですか』と言われると」と主イエスが更に話を促して下さいます。それで「二人は言った。『ナザレのイエスのことです…』」と主イエスの十字架や復活のことについて話が進んでいく。主イエスが近づいて来て下さった中で、聖霊の導きの中で話が進む。ですから、十字架で全ては終わってしまったと失望したり、復活なんかあり得ないと否定したりするのではない方向に、信仰を告白し確認していく方向に話が進んでいきます。話は絶望や不信のままで終わらない。

「エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら」とあります。ルカ福音書ではエルサレムは、十字架の贖罪の出来事が起こった所です。主イエスの甦りが起こった所、聖霊が降臨して教会が誕生した所、その後の伝道がここから始まった所、そういう象徴的な場所です。二人の弟子たちは、このエルサレムからエマオという村へ向かって歩いて行く。よくエマオ途上と言って、エマオに向かうイメージがありますが、弟子たちはむしろエルサレムから離れていく。離れるという言葉は放蕩息子の譬えの中で「彼はそこを立ち、父親のもとへ行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って」行く、あの場面で使われている言葉です。譬え話の父親は、見つけて、憐れに思い、走り寄って来る。エマオ途上のこの場面では、どんどん遠くエルサレムから離れていく弟子たちを主イエスが見つけ、憐れに思い、走り寄って来る。

離れていく、とはどういうことかというと、福音の出来事が起こった所から離れて行く、福音とは関係ない物事の考え方に染まる、流されるということです。福音に絶望し、距離を置き、信じられず、心を閉ざした仕方で福音に拒否的になることです。

イザヤ書八章九節以下「諸国の民よ、連合せよ、ただおののけ。遠い国々よ、共に耳を傾けよ。武装せよ、だが、おののけ。武装せよ、だが、おののけ。戦略を練るがよい。だが、挫折する。決定するがよい。だが、実現することはない。神が共におられるのだから」。これは七章一―二節の、大国アッシリアが攻めてくることに備えて同盟する、しないの議論の中でイザヤが預言した言葉です。人間の企みは挫折する。何故なら、神が共におられるから、と。神に敵対しまた神から離れている者にとっては、神がおられると挫折する。

私たちは、もちろん軍事同盟はしません。でも色々な事と同盟する。噂話、世の中の常識、そして復活なんかあるはずがない、神様の導きなんて嘘っぱちだ、等々、世の中の物事の考え方に引っ張られ、同盟している。キリストの福音から離れていく。

二人の弟子たちも、危うくそうなりかけていた。「私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。それなのに」と望みを失い、「婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです」と婦人たちの報告を聞いているのに信じられない。そして「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言った通りで、あの方は見当たりませんでした」と、婦人たちの報告が確かだと仲間も報告しているのに信じられない。それがエルサレムから離れていく姿です。それは福音を携えてエルサレムから世界へと遣わされていく信仰者の姿ではない。

信じない限り、その方のお姿を目の前に見ていても見えない。主イエスのお姿はそういうお姿なのですね。また信じようかどうしようかと迷いの中にあるなら、教会の語らいの中に加わりましょう。説教聞きながら心の中で対話してみましょう。

信じられるようになるためには、そうやって主イエスのことを話し合い、論じ合うこと、対話することが不可欠です。

主イエスは弟子たちの議論に付き合いながら、次に弟子たちにどうされたかというと、弟子たちに、聖書の言葉を思い出させました。二五節「そこでイエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことを全て信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか』。そして、モーセと全ての預言者たちから始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」。

その時、それは後に気付いたのでしたが、三二節「二人は『道で話しておられるとき、また聖書を説明して下さった時、私たちの心は燃えていたではないか』」。気付かない内に心が熱くなる。私たちキリスト教徒というのは、聖書の通りだねと語り合い、互いにそう思える時って、何だか嬉しいですよね、楽しいですよね。主イエスのことを議論し、聖書と対話して、主イエスに思いを向ける、いつの間にか心が燃えている。このことが教会においてなら起こります。

二人いて良かったですね。二人いたから話し合うことが出来ました。一人だったら、悶々としながら黙って歩いていくことになったでしょう。そして主イエスについて話し合っていたから、近づいて来て下さる。きっとそうなんです。教会の群れだからこそ起こる出来事、教会の皆さんに於いて起こる出来事、また説教聞きながらこちらの自分とあちらの自分との間で御言葉と対話する。その時にこそ起こる出来事、それは主イエスが近づいて来て下さる、心が燃えるということです。

ここに一つの詩・ポエムがあるのでご紹介したい。「足跡」という題の詩です。

「ある夜、私は夢を見た。

神様と二人並んで私は砂浜を歩いていた。砂の上に、二組の足跡が見えていた。一つは神様の、そして一つは私のだった。しかし最後に私が振り返ってみたとき、ところどころで足跡が一組だけしか見えなかった……。

『私の愛する子どもよ、私は決してお前のそばを離れたことはない…。お前が最も苦しんでいたとき、砂の上に一組の足跡しかなかったのは、私がお前を抱いていたからなんだよ』」。

今日は逆に考えてみたい。自分たちだけで歩いている。自分たちだけの足跡だと思っていたのに振り返ってみたら、もう一人分の足跡がある。その足跡があるのは、主が共におられるからだ! 教会の皆様の営みはそのような営みです。

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