「私の霊を御手に委ねます」

森田恭一郎牧師

(ルカ23・44-46)

「父よ、私の霊を御手に委ねます」。十字架上の七つの言葉、伝統的にこれが最後の言葉とされています。マタイとマルコの福音書は「『我が神、我が神、何故、私をお見捨てになったのですか』と叫ばれた後、もう一度大声を出して息を引き取られた」とあるので、その大声の内容をルカ福音書は書き残しているとも言えますし、またヨハネ福音書が「『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」、十字架を枕にするようにして祝福を仰ぎ望みながら息を引き渡した、その成し遂げられたことの内容を、ここで語っているとも言えます。どちらにしても最後の言葉です。私たちがいずれ最期を迎える時、大声で叫ぶかどうかはともかく安心して「父よ、私の霊を御手に委ねます」と静かに、でもしっかりと思いを定め人生を締めくくることが出来れば幸いなことです。

それにしても、主イエスは大声で、全身全霊を振り絞って、御自分の地上のご生涯の全てをこの一点に賭けるようにして、私の生涯はこの一点の成就のためにあった、とその思いを出し切られた。

その一点とは何か。詩編三一篇四節以下の御言葉を主イエスは思い起こしておられたのではないか。「あなたは私の大岩、私の砦。御名に相応しく、私を守り導き、隠された網に落ちた私を引き出して下さい。あなたは私の砦。真の神、主よ、御手に私の霊を委ねます。私を贖って下さい」。

「我が神、我が神、何故、私を…」と叫ばれた、その見捨てられたどん底から「私を引き出して下さい」と主イエスは叫ばれる。そしてその深い淵の底から「真の神、主よ、御手に私の霊を委ね」ます。委ねるとは空っぽの何もない無にただ委ねるのではない。「私を贖って下さい」と贖罪の御業を為さる真の神、主に委ねます。私の大岩、砦と告白する主に委ねる。大岩のような委ねる実体がある。成し遂げられたこの時点では「神よ」ではなく安心して「父よ」と呼びかけ、この方に委ねる。

主イエスは十字架で何を見据えながら「成し遂げられた」と仰ったのか。罪の贖いです。「この私の十字架に於いて、この私がここで見捨てられることに於いて、罪の贖いは成し遂げられる。そうですよね」。その確信の中、「成し遂げられた」。それを再確認するようにして「父よ、私の霊を御手に委ねます。私を贖って下さい」。この「贖って下さい」の詩編の祈りの言葉は、主イエスにあっては、贖ってもらえていないから贖って下さいと願う未完の言葉ではない。私が見捨てられた以上はこれは成し遂げられたのだと、全ての人の罪が裁かれる死をご自身が今背負われたことを根拠に、安心して言える「贖って下さい、全ての人の罪を贖って下さい」の叫びです。確信の中で叫ぶ言葉です。「この一点に、私の地上の生涯、私の十字架の死は懸っている」。そう叫ばれたのです。

「委ねます」。主イエスは御自分の霊を御手に委ねました。ルカはこの言葉を、使徒言行録一四章二三節ではこう用いています。パウロとバルナバが教会の人たちに信仰に踏み留まるように励まし、その第一次伝道旅行の終わりにその締め括りとしてしたことです。「弟子たちのために教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた」。この「任せる」というのが「委ねる」という言葉です。

また、もう一か所、使徒言行録二〇章三二節、パウロの第三次伝道旅行のやはり締め括りの所です。エフェソの長老たちに、教えて来たことを思い起こして目を覚ましていなさいと語ってこう言いました。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなた方を委ねます。この言葉は、あなた方を造り上げ、聖なる者とされた全ての人々と共に恵みを受け継がせることが出来るのです」。

先日の教会総会で長老が選出されました。長老も長老会も、そして教会も、パウロから見れば、頑張ってやってよ、というのではなく、信ずる主に任せるのであり、神とその恵みの言葉とにあなた方を委ねるのです。神様と恵みの言葉が、私たちを導き、造り上げ、恵みを受け継がせて下さるからです。み言を脇に於いて、自分たちで何とかしなくっちゃ、と意気込んだり、背負い込んだりして自力で何とかと焦る必要はない。そうではなく私たちも自分を主の御手に委ねて良い。主イエスは十字架の傷跡のあるその御手を広げて、私たちとその教会を導き出して下さる。そう信じます。

終りに、今日はイザヤ書を選びました。説教するというより、今年も受難日に、イザヤ書の苦難の僕の御言葉に、自分を委ねるようにして聴いて戴きたいと願います。イザヤ書五三章朗読(出来るだけ意味を感じ取りながら心を込めてお聴きください)。

私たちの聞いたことを、誰が信じ得ようか。

主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく、

輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、

多くの痛みを負い、病を知っている。

彼は私たちに顔を隠し、

私たちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのは私たちの病、

彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、

私たちは思っていた、

神の手にかかり、打たれたから、

彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは、

私たちの背きのためであり、

彼が打ち砕かれたのは、

私たちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって、

私たちに平和が与えられ、

彼の受けた傷によって、私たちは癒された。

私たちは羊の群れ。

道を誤り、夫々の方角に向かって行った。

その私たちの罪を全て、

主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み、

彼は口を開かなかった。

屠り場に引かれる小羊のように、

毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、

彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。

私の民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、

命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず、

その口に偽りもなかったのに、

その墓は神に逆らう者と共にされ、

富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、

彼は自らを償いの献げ物とした。

彼は、子孫が末永く続くのを見る。

主の望まれることは、

彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見、

それを知って満足する。

私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。

それ故、私は多くの人を彼の取り分とし、

彼は戦利品としておびただしい人を受ける。

彼が自らを投げ打ち、死んで、

罪人の一人に数えられたからだ。

多くの人の過ちを担い、

背いた者のために執り成しをしたのは、

この人であった。

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