「成し遂げられた」

森田恭一郎牧師

(ヨハネ19・30)

字架上の七つの言葉、その六番目が「成し遂げられた」です。今日は、成し遂げられた、頭を垂れた、息を引き取られた、この三点について、一九章三〇節の聖句からお話したい。

まず「成し遂げられた」。ヨハネ福音書が告げる主イエスの最期の言葉です。口語訳では「すべてが終わった」。私たちが自分の最期を迎え、最後の一言を言うとしたら何を言うだろうか。あぁ、もう駄目だ、全てはお終いだ、と諦めと嘆きの言葉を呟き沈み込んで人生を終えるのだろうか。せめてお世話になった方々に感謝の思いを告げて終わりたいと思われた方が多いのではないでしょうか。

成し遂げられた。ある聖書の訳は「完了した」と明解に訳出している。終わったという響きを残すなら、全てはお終いだという絶望ではなくて、為し終えた達成感と安堵感の響きを伴っている。ならば、何を為し終え、成し遂げ、何が完了したのか。言うまでもない、それは私たちの罪の贖いの御業、救いの完成です。全ては救いを以て終わる。私たちは知っている。主イエスは死に打ち勝ち復活なさり、地上から天へと挙げられる際には私たちを祝福して下さった。罪の裁きとしての死は、その牙と刺を抜かれ、今や私たちにとって、死は天国への入り口になったと。

でももしかすると私たちは、ある思いに引っ張られている。自分が死んだ後のことについては、「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と主イエスが約束して下さったように天国があることを信じている。でも問題は今生きること。この世の生活は、楽園なんかではない、祝福の中になんか全然ない、あの東日本大震災のこと一つ考えてみても解るではないか、被災して、家を失い、家族を失い、築き上げてきた生活を失い、その痛手、傷を負ったまま、何故、復興と言えるのか、まして祝福だなどとはとても言えないだろうと。

十字架の主イエスを見上げると不思議なことに、主イエスが「成し遂げられた」と言われたのは、復活の時や天に戻られてからではなかった。十字架上ででありました。それまでの主イエスの地上でのご生涯、町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された、そのご生涯が否定され、また飼い主のいない羊のように打ちひしがれ弱り果てた群衆を深く憐れまれた主イエスの人格が否定されて結局は十字架に付けられ、更には父なる神からも見捨てられる十字架の、それこそ祝福どころか呪いと絶望の中で、誰よりも「もう駄目だ、お終いだ。全ては無に帰した」と吐き捨てるように絶句できる十字架上で「成し遂げられた」と仰られた。

二八節にあるように、主イエスは既に「全ての事が今や成し遂げられたことを知って」おられました。そしてそこで仰ったのは「渇く」。ヨハネ福音書が記す最期の言葉が発せられたのは、復活の潤いの中ではなく十字架の渇きの只中であった。

この主イエスのお言葉が十字架上で発せられたことに想い深めると、私たちが救いと祝福を信じられるのは、必ずしも私たちの地上の幸いな生活があるからではなさそうです。苦難や見通しが立たなくなる中にあると、これでも神はいるのかと私たちは神を見失いそうになる。その私たちのために成し遂げて下さったのが、正にそういう私たちの罪を贖う十字架です。苦難の中にある時にどなたも、キリストが「成し遂げられた」と宣言して下さる祝福の中に包まれ、立ち続け生きていくことが出来ますように願わずにはおられません。

さて次に、「頭を垂れて」についてです。十字架で頭を垂れる主イエスのお姿を思い描いてみると…、息を引き取られるその直前に力尽きて頭を垂れる、うなだれるように頭を前に垂れられたのか、横になのか、それとも後ろになのか…。頭を「垂れる」は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所も無い」と主イエスが言われた、その「枕する」という言葉です。後ろに枕された。

創世記二八章一〇節以下のヤコブの話、兄の祝福を奪い取って、殺されるかもしれないと兄の怒りに追われるようにして逃げる途中の、とある場所での出来事。「日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった」。そうしてヤコブは夢を見る。「先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びており、しかも神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」。そこで主の御声を耳にします。「地上の氏族は全て、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」。ヤコブは眠りから覚めて言った。「ここは何と畏れ多い場所だろう。これは正しく神の家である」。

主イエスは、枕する所もないご生涯の終りに、十字架上で十字架を枕にするようにして頭を垂れました。ヤコブが石を枕にして夢を見たように、主イエスは十字架を枕にしながら、夢を見るようにして祝福をご覧になったのではないか。この十字架の故に人々の罪が贖われて全ての人たちが祝福に入るのだ、と。

罪の贖いを成し遂げ、祝福を見通しながら、主イエスは息を引き取ったのでした。先程「完了した」と訳した聖書はこの箇所をこう訳します。「頭を垂れて霊をお渡しになった」。また別の聖書では「頭を垂れ、霊をお渡しになった」。両方とも「息」の代わりに「霊」、「引き取る」の代わりに「渡す」。日本語として自然な「息を引き取る」の訳を「霊を渡す」と直訳すると、また別の響きに気付きます。

思えば、受難週を表す象徴的な言葉があります。それは「引き渡す」。「裏切る」とも訳される言葉です。イスカリオテのユダが主イエスを裏切る。裏切って、主イエスの身柄を群衆たちに引き渡しました。群衆たちは大祭司カイアファに引き渡し、カイアファはポンテオ・ピラトに引き渡し、ピラトは十字架に付けるために兵士たちに引き渡し、兵士たちは十字架に付けたのです。次から次へと引き渡され十字架に付けられた主イエスは、その最期の時に、ご自身の霊を引き渡しました。

誰に引き渡されたのであろうか。言うまでもなく「私の霊を委ねます」(ルカ二三・四六)と父なる神に引き渡されたでありましょう。でももう一つの理解がある。先ほど二番目に紹介した聖書に注が付されていてこうあります。「『霊をお渡しになった』は、息を引き取られたの意。この表現は、イエスが聖霊をキリスト者に与えることの前触れと解される」。この理解によると、主イエスが十字架を枕にし祝福を見通し、そこで為さったことは、霊をお渡しになって教会の基礎を据えることです。主イエスが息を引き取られた後、アリマタヤのヨセフが主イエスのご遺体を十字架から取り下ろして墓にお納めしますが、ご遺体は墓へと言わば引き渡されても、主イエスの霊=聖霊は弟子たちに、教会に引き渡されて行く訳です。

このことが弟子たちにはっきり分かるのは後の聖霊降臨に於いてですが、主イエスはこの時点で既に教会の備えを為さっておられる訳です。だから、改めて繰り返しますが、もう駄目だ、全てはお終いだと、空しく終わったのではない。霊の引き渡しと共に教会と私たちがキリストの霊に支えられて祝福に生きることを見通しつつ「成し遂げられた」と言われて、最後を迎えられたのです。そう考えると、成し遂げられたといっても、終わったというよりここから始まった訳です。 

私たちは、仮に苦難の中にあったとしても、この祝福の言葉を忘れない。祝福を信じて教会と私たちの歩みを続けることが出来る。今日は教会総会です。私たちはこの主イエスの霊を渡されて、その祝福を信じながら、教会に仕える。そこに根拠を与えられて共に教会に仕える。この祝福を信じ分かち合いながら共に歩みます。そういう群れである教会に私たちは集うようにと招かれている。

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