「あなたは今日、私と共に楽園に」

森田恭一郎牧師

(ルカ23・35―43)

主イエスの十字架上の七つの言葉の内、今日は「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」の御言葉から説教します。

主イエスの右と左に犯罪人も十字架にかけられました。そのことにおいて主イエスは二人の犯罪人と並ぶ一人の犯罪人、いや、神の御前に於ける罪人の一人に数えられる事となりました。しかし、主イエスは罪人とされながら、左右の犯罪人とは決定的に異なる所がある。それはまず、十字架において神の御子であられた。だからこそ「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と宣言することがお出来になる訳です。 もう一つは、十字架の意味が全く異なる。四一節の犯罪人の言葉が明らかにしています。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。犯罪人たちの十字架は犯罪を犯した事に対する報い、刑罰としての十字架刑です。しかし主イエスは何も悪いことをしていないのに十字架に付けられます。何故か。私たちの罪を代わりに背負われた贖罪の十字架刑であるからです。

今日の主イエスの十字架上のお言葉は、主イエスが犯罪人の罪をも代わりに背負う故にこそ可能な、神の御子としての宣言のお言葉です。この犯罪人の罪をも主イエスが背負って下さったが故に「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言える。   

この宣言は、十字架によって罪贖われた全ての者たちに向けられている宣言だと言い得るものです。私たちも、自分にも語られている宣言だと安心して構いません。ただ、今日の聖書の場面の前後関係においては、次のように言った片方の犯罪人に向けて語られました。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出して下さい」。出来る事なら私たちも、自分の死の間際であってもこの言葉を言えるようでありたい。 

「思い出して下さい」。この言葉はどのような響きを持つ言葉でしょうか。例えば詩編七四篇「神よ、何故あなたは、養っておられた羊の群れに怒りの煙を吐き、永遠に突き放してしまわれたのですか。どうか、御心に留めて下さい(口語訳聖書では思い出して下さい)」。また詩篇二五篇六節では「主よ、思い起こして下さい(同)。あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。私の若い時の罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、私を御心に留めて下さい(同)」。「思い起こして下さい、御心に留めて下さい、思い出して下さい」。詩人がこう訴える時、彼は嘆きの中にあります。自分のいる歴史、社会と生活の中に神の導きを見出せなくなっている詩人が、神様に向かいすがるような思いで嘆きを注ぎ出している。それが「私を思い出して下さい」の響きです。

十字架の犯罪人も「私を思い出して下さい」と訴える。何故、自分のせっかくの一度限りの人生が最後には十字架に付けられて処刑されるような人生になってしまったのか、やはり嘆く思いの中にあったのだと思います。その意味では詩編の詩人と同じです。でもこの犯罪人が詩人と決定的に異なっていることがある。それは人生の土壇場で救い主を身近に見出し、そして救いの宣言を「はっきり言っておく」と確かに聞き取ったことです。この御言葉を聞いても彼は十字架から降りることの出来ない現実は変わらない、でも死ぬまでの数時間、救い主の「今日、あなたは」という希望の祝福を信じながら生きることが出来た。

さて、もう一人の犯罪人に目を向けますと「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ』」。主イエスは、こちらの犯罪人に対して「楽園にいる」とは宣言なさいませんでした。彼は「私を思い出して下さい」と願わず、まして罵(ののし)ったのですから当然かもしれません。でも皆さん、この犯罪人は罵ったから楽園を約束してもらえず、もう片方の犯罪人は願ったから救いを約束してもらえた、こう理解して読み終えていいのだろうか。立ち止まって耳を傾けてみたい。主イエスの無言の言葉を…。

主イエスは彼にこうは言いません。「思い出して下さいとも言わず、まして私を罵るようなお前は楽園なんかに行けるものか、お前のような者は地獄行きだ」。代わりに黙っておられる。三四節で「父よ、彼らをお赦し下さい」と執り成しを祈られた後も、人々は嘲笑い、兵士たちも侮辱してああだこうだと言う。そしてこの犯罪人も主イエスを罵る。その間主イエスはずっと黙ったままです。十字架上の七つの言葉と言われますけれども、ここに十字架上の無言の言葉がもう一つある。

この犯罪人は罵った後、もう一人の犯罪人と主イエスのやり取りを耳にすることになりました。「私を思い出して下さい」「あなたは楽園にいる」。このやり取りを聞きながらどう思っただろうか?「えっ、今日楽園にいる? お前だけか? 俺だって行きたいよ」。もしそう思ったのなら彼も言っていい。自分のこれまでの人生を嘆きながらでも叫んでいい、「主よ、この私の事も思い出して下さい」と。主イエスは無言のうちに彼がそう言い出すのを待っておられる。そして主イエスは彼のことを忘れ去ってはおられない。そう信じます。

罵りの言葉は旧約時代からいつもありました。詩編二二篇にも「私は虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。私を見る人は皆、私を嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けて下さるだろう』」。この言葉はイスラエルに対する周囲の異邦人の罵りの言葉ですが、新約聖書では主イエスに対する罵りの言葉となります。主イエスは「虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」であるかの如くに、そのようにして十字架に付けられた。そして人々は罵った。

ルカ二三章三五節以下に登場する人たちも皆、同じように嘲笑ったり侮辱したりしました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシア(=救い主)で選ばれた者なら、自分を救うがよい」。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。十字架の犯罪人も罵った。そういう彼なのですが、一つのことに気付きます。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。罵っているようでありながら「我々を救ってみろ」と言っている。周囲の人たちは、「お前はメシアなら自分を救ったらどうだ」と言うのみです。犯罪人は自分が十字架に付けられているので、何故自分の人生こうなってしまったんだと自分の人生を嘆く。そして、救って欲しいと思う。だから「我々をも救ってもらいたい」と言い得た。周囲の人たちはそこまで思っていなかった。自分の人生を嘆く必要もなく、救ってもらう必要も感じていない。そこで主イエスを嘲笑って自分の事は入って来ない。

嘲笑ったり侮辱した周囲の人たちも、ののしったこの犯罪人も、もう一人の犯罪人も、既に、三四節の「父よ、彼らをお赦し下さい」という主イエスの執り成しの祈りの中にある。しかしそれを知っている人はいない。その中で犯罪人は、罵った犯罪人も気付き始めている。嘆いている自分、罵りの言葉がつい口を突いて出てしまう自分、でも本当は救って欲しいと願っている自分、でも素直に「思い出して下さい」とは言えないでいる自分。そんな自分を引きずりながら、救い主が横におられるのだという事に、あっと気付く。

彼は「俺を救ってみろ」ではなくもう一人の犯罪人も含めて「我々を」と言う。思えば不思議な言葉です。ある説教者がこう語ったそうです。「もう既にここに教会の原型がある」と。成る程…、まだ聖霊降臨の前ですからいわゆる教会の誕生という事ではない。でも、十字架と復活を見越して楽園を約束する主イエスの救いの宣言と、それを受け取る一人の犯罪人、そしてその証言を聞いているもう一人の犯罪人、彼もまたそれを待ち望んで「主よ、私をも思い起こして下さい」と主に向かって告白するように招かれている。この三人の存在は、求道中の方も含めた教会の原型を指し示しているのかもしれません。

終りにもう一度詩編二二篇。二二篇は前半は嘆きの言葉、二三節からの後半は賛美の言葉に変わります。何故、前半の嘆きの言葉しか語れなかった彼が、後半から突如賛美の言葉を語れるようになるのか。それは…、この詩人が集会(=礼拝)の中にいるからです。二三節「私は兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」。二六節「それ故、私は大いなる集会で、あなたに賛美を献げ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物を献げます」。個人が孤独の中で訴えまた吐露していた嘆きを、集会の中で嘆くとき、集会は、不思議と嘆きを賛美に変える。賛美に変わり切らなくとも、少なくとも希望への招きの中での嘆きに変える。どれ程嘆いてもいい、どれ程辛い中で神様に訴えてもいい、それを個人で独りでするのではなく集会での中で嘆くとき、不思議と嘆きは変わる。集会は賛美をささげる所です。その場に身を置きながら嘆く。賛美が嘆きを包み込む。それは私たちの礼拝経験の一端です。

私たちの受難節の礼拝、集会も、「父よ、彼らをお赦し下さい」の執り成しの祈りと「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」の宣言の、この二つの御言葉に囲まれています。そこに私たちがいる。そこで仮に嘆くとしても、その嘆きは主イエスの執り成しと宣言の間に囲まれた枠の中にあり、そこで嘆くことになる。この枠で嘆く嘆きは嘆きで終わらない。礼拝の不思議な恵みの力です。

トップページ
教会学校
各部会案内
婦人会 壮年会 青年会 シャロンの会 カレブの会