「父よ、彼らをお赦し下さい」

森田恭一郎牧師

(ルカ23・34)

先週水曜日から受難節に入りました。これからの受難節の期間、主イエスの十字架上の七つの言葉を取り上げながら、また先週は研修会や教会学校教師養成講座で左近豊牧師の講演を伺いましたので、それも引用しながら説教したいと思います。

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」。この言葉は二三章三三節の「人々はイエスを十字架に付けた」、そして三四節「その時主イエスが言われた」言葉として残されている祈りの言葉です。主イエスが十字架に付けられた正にその時の祈りです。

「彼らをお赦し下さい」と主イエスは祈られました。その彼らとはまず主イエスを直接十字架に付けた作業をしたローマ兵たち。その兵士たちを指揮命令した百人隊長、その傍で主イエスを嘲笑っていた人々や服を分け合うくじをひいていた人々、十字架刑の判決を下しその人々に主イエスを引き渡したポンテオ・ピラト、ピラトに十字架に付けろと叫びわめきたてた群衆たち、群衆たちをそのように唆した祭司長や律法学者たち、祭司長や律法学者たちに主イエスを売り飛ばしたイスカリオテのユダ、ユダによって主イエスが不当な裁判へと捕えられた時に逃げ出してしまった主イエスの弟子たち、そしてその中にはペトロもいます。

このペトロの人生を、左近牧師は教会学校教案誌の中でこう語ります。「ペトロは鶏が鳴く前に三度『イエスを知らない』と言いました。呪いの言葉さえ口にしながら誓ったのです。主イエスと湖畔で出会い、枕する所もない旅を苦楽を共にし、食卓を囲んではその教えに心燃やし、キリストの涙も笑いも、祈りも汗も間近に分かつ歩みをしてきたことを『イエスを知らない』と真実をまげて事実を歪曲して、虚偽を証しし、神の名を呪いを以て汚してしまった…。そのペトロのためにも主は十字架で贖いと赦しを示されたのです」。

ここを読みながら思いました。私たちは…、主イエスと教会で出会い、福音書を味わいながら、枕する所もない旅を苦楽を共にし、聖餐の食卓を囲んではその教えに心燃やし、説教から信仰の想像力を膨らませてキリストの涙も笑いも、祈りも汗も間近に分かつ歩みをしてきているはずです。でも『イエスを知っている』と、職場で、地域のコミュニティの中で、そして何か大事な時に家庭の中でさえも、『イエスを知っている』と真実を語れない時がある。そして自分に対しても「主イエスを信じる信仰を持っていても」と自分の弱さに負け心秘かに思うことがあるかもしれない。

でもその私たちのためにも主は十字架で贖いと赦しを示された。「彼らをお赦し下さい」と主イエスは祈って下さる。そしてそのように祈られたその「彼ら」から漏れている人はいない。実に世界中の人たちが、主イエスの執り成しの祈りの中にある。でも多くの場合そのことを気付かない、知らないでいる。私たちの知らない内に「父よ、彼らをお赦し下さい」と主イエスは祈っていて下さる。聖書によれば人は全て罪人ですが、主イエスに祈ってもらっている罪人です。

先週、教会学校教師養成講座において左近牧師のお話を伺いました。その中でヨブの話もありました。ヨブは突然、子どもたちと財産を失い自らも病にとりつかれる。幾多の不条理に出会い嘆き、そして、何故なのかと不遜なほどに神に問い食らいついて行く…。彼を慰めるためにお見舞いに来てくれた友人たちがおりました。彼らはでも、結局何を語ったかというと、きっとヨブは何か悪いことをしたから、こんなひどい目に遭っているのだ、だから悔い改めねばならない、悪いのは神ではなくお前なのだと因果応報論の考え方だけでした。ヨブは納得しません。悪いことをしていないという人物設定だからです。もちろんそのような人は世の中にはいません。でもその分問題がクリアになります。それでこそヨブは神に向かって嘆き、また食らいついていきます。

友人たちは、お前はきっと悪いことをしたのだ、神を悪者にするとは何事かと、もっともらしいことを語っているけれども、実は神無しで生きている。左近牧師の言葉で言うと「彼らの考え方に沿って固定されたイメージの中に神を押し込め閉じ込めている。そのような時何が起こるか。人は神に代わって語り、行動し、神の名の下に正義を振りかざして過ちを犯す。赦すより裁き、愛するよりも憎み、和解するよりも争い、そのようにして神の民は、共同体は、誤った神のイメージをそれぞれに胸に抱きながら、礼拝をしながら共に救われ、共に担われて歩んできた隣人同士が、その只中に破綻することも起こる」と。

ヨブの友人たちはそのようにヨブを突き放す。神無しに自分の考えでヨブを裁く。このことを当の友人たちは解らず、知らないで突き放している。

左近牧師がヨブ記の最終場面の神の言葉を紹介下さいました。友人たちに語る言葉です。「私はお前たちに対して怒っている。お前たちは私について私の僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。お前たちはヨブに執り成してもらえ」と。私には新鮮に響きました。最初、この友人たちこそが、不条理の中にあるヨブのために執り成しを祈り慰めを与えるはずだったのに、実はこの友人たちが、執り成してもらうことを必要としていた訳です。そう、私たちも世界中の人たちも執り成してもらうことを必要としている。けれども友人たちのために執り成すヨブにしてみれば、執り成すのは大変です。不条理の中で呻き苦しむ自分が、ヨブの事をちっとも理解せず勝手な議論を押し付けてくるこの友人たちのために執り成しの祈りをする。自分はといえばまだ不条理の中にいるのに、そんな勝手な相手のために祈れますか。

イザヤ書が五三章一二節の最後の箇所でなぜこう記すのか。「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった」。それはこの方以外に、執り成しの出来る者はいないからです。そもそも私たちは相手を赦せないもの、些細なことならともかく…。けれども自分が直接相手を赦せない時にせめて「神様、あの人のことを赦してやって下さい」と執り成すことが出来たら、それだけでも大したものです。神様を経由して、相手との関係が保たれることになります。

「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」。主イエスがこう祈られる時、真っすぐに父なる神に向き合います。彼らのせいで自分はこんな目に遭っていると彼らの罪に思いを振り回されるのではなく、彼らの罪を見据えつつも、その彼らの罪の赦しを執り成すために、真っすぐに「父よ」と神に向き合う。この時、初めて執り成しを捧げることが出来る。

そして執り成しが出来る理由をもう一つ考えたい。左近牧師は先日の研修会でこう語られました。『拷問と聖餐』という一九七〇年頃の南米チリの独裁政権下での書物を紹介しながらこう語られました。「教会という聖餐共同体が神の現臨によって、現世の課題に想像力を以て戦った。時の独裁政権の勝手気ままに支配したいという政権が描く想像力を社会の人々が諦めて受け入れたら社会はそこに埋没していく。しかし聖餐に与りながら、一見政治とは関係ないと思える聖書の想像力が生み出す力、希望というのがあって、それが政権と闘う力となった。生きている世界でいかに聖書的に想像力を持てるか。通常、祈っても無力だ、祈りがどれだけ世界に対して力を持ち得るかと疑ってしまいます。でもそうなのか」と問われた。

そこで、イザヤ書の言葉をもう一度思い起こしたい。一一節「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」。ここで苦難の僕は、信仰の想像力を発揮している。それは「苦しみの実りを見ている、多くの人が正しいものとされる」という贖罪ゆえの赦しの世界を想像している。主イエスは、御自分を十字架に付ける彼らに、主イエスの苦しみの実りを見出し、彼らが正しい者とされる想像力を働かせている。だから彼らを執り成すことが出来る。

左近牧師はこうも問いかけられました。私たちがこの世界と時代の中で、どう祈り、執り成しを託されているのかと。主イエスに執り成しを祈ってもらっていることを知っている教会と私たちは、そこから、執り成しの祈りを託されている。私たちもまた、主イエス・キリストの贖いの故に、主イエスの苦しみの実りを見、多くの人が正しい者とされることを夢見て、執り成しに生きる。

時折引用します小島牧師の聖句断想の昨日の聖書日課、中風の者を担架に載せて四人の人が主イエスの所に連れて来たあの箇所から、小島牧師は想像を広げていきます。「主イエスは連れてきた人の信仰を見ます。一人の人が救われるために、その一人を巡る人々の信仰があるのです。彼を巡る祈りと献身に応えて、救い主は御業を行われます。むろん、救い主は御自分だけで御業を行うことも出来るのです。しかし教会の祈りに応えて御業を行うことを何にもまして喜びとされるのです」。

執り成しの業であれ祈りであれ、私たち教会は、執り成しに生きることを託されています。

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