「仕えるために来た王」

森田恭一郎牧師

(マルコ10・42-45)

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来たのである」。今日はこの「仕える」の言葉に想いを深めたい。聖書がここで語る「仕える」は、人の子、すなわち主イエスが仕えて下さることであり、その内容は「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」というものです。フィリピの信徒の手紙には仕える姿をこう表現します。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、却って自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。真の神であり、真の王であられる方が罪人を救うために十字架にまでかかられ、十字架の死に至るまで従順であられました。このようにして仕えられたのであります。天上の世界から、天を裂くようにして、地上、そして陰府に至るまで低く降られたのです。

通常日本語の「仕える」は下の身分の者が上の身分の者に仕える。上の身分の者が下の身分の者を使いたい放題にこき「使う」、下の立場から言うと「仕える」となります。仕える者は上の身分の人の使用人となって使われ、そのように仕えます。滅私奉公という言葉もありますが、そこでは自分が滅せられる、滅んで、相手に奉公する。それは皆、上下関係の道徳意識で律せられている。 これが日本語の「仕える」という言葉です。上の身分の者が「お上」と言われ、人々は「下々」と言ったり致します。戦後の日本国憲法下では本当は人間は対等なのに、尚日本社会には上下関係があり、天皇に対しても、戦前の現人神ということこそ言われなくなったにせよ、そういうお上意識が多数の国民に残っているのではないか。

更に日本語の敬語全般についても同じことが言えます。単なる丁寧語ではない。謙譲にしても尊敬にしても上下関係を前提にして言葉が成り立っている。外国の人にとって日本語の敬語は大変難しいらしい。

さて、イスラエルが王を立てる頃、ペリシテ軍が繰り返し波状的に襲ってくる。その都度、士師記に登場するようなタラントを持った者が指導者になり、にわか作りの軍隊を組織して、というのでは間に合わない。そこで人々は常時、軍隊を率いる王様を求めた。そこに潜む問題は何だったのか。神の前に平等の人間なのに、王の下では上下関係の社会が出来る。サムエル記上八章一〇節以下「サムエルは王を要求する民に、主の言葉を悉く伝えた。彼はこう告げた。『あなたたちの上に君臨する王の権能は次の通りである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。また、あなたたちの穀物とぶどうの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。あなたたちの奴隷、女奴隷、若者の内の優れた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する』」。息子も娘も財産も徴用されてしまう。そしてそれをひと言で言うと次の所、「こうして、あなたたちは王の奴隷となる」。サムエルが、王を立てることの問題点として語ったまとめの言葉は「王の奴隷となる」という上下関係の社会の構造でした。サムエルはそれを危惧している。でも時代の要請です。時代の現実の中に在って、如何に少しでも本来の社会の在り方を目指して形成していくかが、いつの時代も課題であります。

主イエス・キリストが、「仕えるために来た」と仰るとき、なるほど天上の高みから陰府の一番下まで降りてこられた訳ですが、身分関係の下に来たということではありません。人となられて、陰府の一番下の所にいる人にも、関係を持ち救うために下まで来て仕えて下さいます。それは身分の下ということではなく、その人がいるその場所、その場所で、陰府の一番下の所でも、対等になって下さって、私たち一人ひとりと関係を持って下さるためのものです。そういう姿勢で「仕える」訳です。ヨハネ福音書一三章の所で、主イエスは、奴隷のようになって弟子たちの足をお洗いになりました。でも身分として下になったのではありません。人間として対等に、しかし相手に必要なお世話をするということです。

介護実習の学生さんから時折耳にするのですが、「お世話してあげる」というのは上から目線で良くない、傲慢にも聞こえる、それで何と言うかというと「お世話させて戴く」というのが良い、と言うのですが…。確かに「お世話してあげる」は良くないですね。しかし「させて戴く」というのも、そんな卑下する必要はない訳で、むしろ「お世話します」という姿勢でいい。対等な人間同士として世話をする。ただ相手が助けを必要としている、お世話を必要としているから、お世話するというだけのことです。もちろん日本語の挨拶の言葉として「シーツ交換させて戴きますよ」という言い方はあり得るとは思いますが、人間として対等な者同士、ということが大事です。

さて、主イエスはマルコ一〇章四二節で仰いました。「あなた方も知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」。 人間の本質として支配者と被支配者がいる訳ではない、役割分担として行政のトップはその仕事に仕えるというというはずです。でも現実はそうならない。「支配者と見なされている人々が」と仰るのは「本当はそうじゃないのにね」という主イエスのユーモアでしょう。

そしてこう仰いました。「しかし、あなた方の間では、そうではない」。「そうではない」というもう一つの現実を語る。マタイ福音書では「あなた方の間では、そうであってはならない」です。注意して欲しいのですが、マルコ福音書では、そのように律法的にではなく「あなた方の間では、そうではない」という現実の事実を語っている。

更に続けての文章は「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい」という言い方ですが、まさか仕えたら偉くなれるとか、僕になったら一番上になれる、と本気で語っている訳ではない。対等に仕える、対等な僕になって人間関係を作っている。それはもうあなた方の間では現実になっている、そこから、偉くなる、一番上になることの滑稽さを語っておられる。

仕え、僕になることが現実になるのは何故だろうか。主イエスが上の者としてではなく、対等に弟子たちと関わっておられる、対等に徴税人や罪人たちと関わっておられる、その現実があるからです。この主イエスの現実に触れた時、そして自分がそのように包まれた時、人は他者を下に見ることはなくなる…。

いや実際には、この社会に生きる者として、どうしても上下関係の秩序で物事を見てしまう。相手との関係を上下関係の下に見てしまう、ということはあるのですけれども、その弱さを自分自身に感じます。だから、マルコ以外の福音書では律法的に「あなた方の間ではそうであってはならない」という言い方、あるいはマルコでも「僕になりなさい」という言い方で戒めることになるのですが、言われて出来るかというとしかし、律法的に言われても出来ないことです。律法として言われてではなく、主イエスが対等にこんな自分と関わって下さったという主イエスとの人格的出会いから、私たちは変えられ、方向づけられて、「あなた方の間ではそうではない」という現実へと招かれていくのでありましょう。

教会も、牧師が上に立つものではありませんが下に立つ必要もない。職務・役割が異なるだけの話でして、人間としては牧師と信徒、対等です。

また皆さん方お互い同士も、相手のことを心にかけ、相手のために仕え合っているのではありませんか。

主イエスは段落の終りの所で仰いました。「人の子は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。言うまでもなく十字架の出来事を指しています。本来ならば、私たちが十字架にかからねばならない所を、主イエスが、十字架にかかるべき私たちと対等になって、十字架にかかって下さいました。この出来事から私たちも「あなた方はそうではない」という現実の中に招かれているのです。

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