「羊が命を豊かに受けるために来た」

森田恭一郎牧師

(ヨハネ10・7―13)

「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。私は良い羊飼いである」。羊が命を受けるこの命は、身体的な生命というより神様との関係の中にある命です。今日はこの「命」に思いを深めたく思います。

羊が命を受ける。しかも豊かに受けるために、主イエスが来て良い羊飼いになって下さいました。私たちはその羊です。一三節に「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とありますが、この命は身体的な肉体のことです。良い羊飼いは、狼が来ても身体的な命を賭けて羊を守る。羊のことを心にかけているからです。そのように主イエスは、私たちを心にかけ、十字架でご自身の命をささげて下さった。そのお陰で、私たちはこの良い羊飼いの下で命を豊かに受けることが出来ます。

羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出します。三節、「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を全て連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、他の者には決してついて行かず、逃げ去る。他の者たちの声を知らないからである」。コロサイ書四章三節に「御言葉のために門を開いて」という表現があります。まず聖書が門であると考えてみましょう。そうすると聖書という門を開く門番は礼拝の説教です。教会の礼拝に集まる私たちは例えば今日のみ言葉をよく知っている。知っているのは、日頃から礼拝で聖書を開いて、この聖書から語られる御言葉を聴いているからです。もし礼拝が、聖書を閉じたままで御言葉の説き明かしもないとしたら、どんな礼拝になるのでしょう。せっかく主イエスがここにおいでになっても、その御声を聞かず、主イエスを誰も知らないままで終わります。羊飼いの主イエスは私たちの所を通り過ぎたままで礼拝は終わります。

先週のザアカイの話でも、主イエスがせっかくエリコの町に来て下さったのに、そして人々が人垣になって列を作る程に集まっても、主イエスは通り過ぎて行くだけです。でもそこで主イエスが語って下さった!「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は是非あなたの家に泊まりたい」。そしてザアカイはこの御言葉を聞き流さず、無視せず、拒むことなく受け取った。そしてザアカイは急いで降りて来て喜んで主イエスを迎えました。

この礼拝に主イエスが来て下さっておられると信じます。そして礼拝で聖書の門を開き、説教を通して御言葉を聴いて受け取って初めて、私たちの所に、良い羊飼いの主イエスが来て下さる。

それで九節「私は門である」。羊飼いの家では、羊の囲いには門があり門番もいるのでしょうが、牧草を求めて出かけた先では、茨の茂みのようなものを用いて簡易の囲いを作る。そこには門はなく、囲いが区切れているその所に羊飼いが寝泊まりして羊飼い自身が門になる。「私は門である。私を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするために他ならない」。門である羊飼いの所を通って出入りし、羊飼いについていくことが羊にとって命に関わることになります…。羊飼いの声を聴かず、その門を通って出入りせず、羊飼いについて行かないで、羊飼いから離れたら羊はどうなりますか。

主イエスはこう仰いました。ルカ一三章二四節「狭い戸口から入るように努めなさい」。またマタイ七章一三節「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし命に通じる門は何と狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない」。 狭い門と言うと、受験生は大変です。合格定員が限られている所に受験応募者が増えるとその分狭くなる。でも、主イエスがここで仰ることはそういうことではありません。キリストの門は何人でも誰でも入れる。だから安心して良い。ならば何が狭いのかというと、命に通じるその細い道、その門は、ただ一つ、キリストの門でなければならない。人数制限はないから広いのですが、その門はこの門一つ。この門を見出さなければならない。そして他に一見私たちを支えるように見える門が沢山あるから、惑わされてそちらに行ってしまう。だから「『私』は門である。『私』を通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」。キリストのみ、そういう狭さ、細さがある。神の細道です。

そして、その御声を聴いて受け取らねばならない。そのキリストの御声を記しているのは、今日の私たちには聖書のみ、その聖書を説き明かすのは礼拝のみ、礼拝をささげるのは教会のみです。

「羊はその声を聞き分ける」。聞き分け、聞き取り、聞き従います。でも良い羊飼いの声とそうでない声を聞き比べて、どっちかなぁと聞き分けるのではありません。幼子は親の呼ぶ声を瞬時に聴き取って親について行きます。瞬時に聞き分けているのですが、どっちの声かなぁなんて迷うことも、まして他の人について行くなんてあり得ません。それは生まれた時から、親に抱っこされ、語りかけられて一緒に過ごしてきたからです。

私たちも、毎週礼拝に集い、御言葉の説き明かしを受け、主イエスの御声を聴き続ける。だから迷いません。この礼拝で、主イエスが命を授け、心にかけて下さり、愛して下さる。主イエスが良い羊飼いであることを味わっているからです。

「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」。この命は身体的生命とは別の、生まれてきてよかった、生きていていいのだ、これからも生きて行こう、と思える生き生きとした命。いや死んでもなくならない命です。霊魂不滅ではなく、むしろ安心して死ねる命、関わりの命です。関わりといえばまず、人と人との関わりがあり、そして神との関わりがあります。 エゼキエル書三四章二三節「私は彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは我が僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる」。牧者を立てるのは神が人と関わるためです。そしてこの僕ダビデとして主イエス・キリストが来られた訳です。二四節「また主である私が彼らの神となり、我が僕ダビデがあれらの真ん中で君主となる」。これはアブラハム契約のことです。

更に三〇節に「その時彼らは私が彼らと共にいる主なる神であり、彼らは我が民イスラエルの家であることを知るようになる」。ここで注意したいのは、神と私一人の関係でなく、神と民=家となっていることです。ザアカイにも主イエスはこう仰いました。「今日、救いがこの家を訪れた」。ザアカイ一人だけでなく、家族も収税所の仲間たちも含まれて、家は救いの共同体になります。

ヨハネ福音書に戻りまして「心にかける」。これも関わりですね。ここに命があると言えます。先日、夫々別のお二人の方から電話がありました。同じ内容です。「先週行けなくてすみません。来週も行けないんです」。電話を受けて、申し訳ないのですが、そうそうそういえばこの方はご欠席でしたねと思い返します。そしてお一人は「来週もどうしても用事があって伺えません」。でももう一人は「インフルエンザにかかって今度も休みます」。十分に心にかけていなかった、と申し訳なく思いました。電話を戴いていなかったら次の週も知らないまま終わってしまう所でした……。この教会に参りましての感想の一つは、皆さんがお互いに気にかけ、心に留め合っているということです。もちろん完全にという訳ではないでしょうが、こういう関わりの中に、こういう共同体に属している、これは命だと言えます。牧師と長老会は、礼拝を整えることと共に、心にかけることに、こういう共同体を形成していくことに責任を果たしていかねばならないと改めて想いました。

以前、病院のある研修で、患者が自分の人生で何をしたいか、それを支援するには病院のスタッフは何が出来るか話し合いました。やり残したことがあると悔いが残る、そうならないよう支援していくこと、意思表示が難しくなる前に話をよく聞いておくことは大事です。でも一方、もう終末期になって、今さら何をしたいかの気持ちは薄らいでいくことも多いのではないか。自分にとっては世界は過ぎ去っていく。それよりも今、医者、看護師、薬剤師、調理師、リハビリの先生や療法士、ケースワーカー等々、一人の患者のために実に大勢の人たちが関り心をかけてくれる。この事自体が、患者の人生の最期に大切な体験になり、身体的命はどんどん衰えて行っても、患者には命になっていく、人の関わりのこの経験とその質!

この経験が更に「神様があなたを心にかけていて下さいますよ」と御言葉を映し出すものとして自覚されるなら、それは神様との関わりの命になっていき、相手は神様ですから地上の人生を越えても続きます。そのためには御言葉を聴くことが不可欠です。「私が来たのは、羊が豊かに命を受けるため、そのために私は十字架で自分の命を捨てる。それ程に私はあなたを心にかけている」。支援される経験と御言葉が重なると、人との関わりが単なる人の優しさで終わらず、神との関わりを映し出す支援になる。人との関わりの中で神関係が実経験になる。教会員に見舞ってもらい、また日頃元気な内から教会共同体に属して、病院でも御言葉を思い起こし、御言葉を聞く中に身を置くと、その人は神様との関わりの中にある命です。

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